2008-07-04

最近翻訳やってないなあ。一年以上前にやった、ほぼできかけのやつがあるんですが(こう書くともったいぶってるような言い方だ……)、作者に出すメールの英語を書くのが面倒でやってない。

Subversion の Windows 用バイナリが、CollabNet のサイトにユーザー登録しないとダウンロードできなくなってる! と、思ったら、ソースのダウンロードのツリーにさりげなく Windows 用バイナリの ZIP があった。

にを

古文を読んでいると、現代の感覚では捉えがたい助詞の使われかたに出くわすことは多い。「に-を」と続く助詞もそのひとつ。現代語じゃ使ってない、はず。

  • いまは、限りありて絶えんと思はん時にを、さることはいへ。(枕84・里にまかでたるに)
  • 御簾の前にて、人にを語り侍らん。(枕87・職の御曹司におはします頃、西の廂にて)
  • ……さらば、それにをありしことをばいはん、とてあるに、……(枕161・故殿の御服のころ)
  • いかでかかるついでに、この君にをたてまつらむ。(源氏12・須磨)
  • まづまことの親とおはする大臣にを知らせたてまつりたまへ。(源氏22・玉鬘)
  • また、さやうにを人知れず思ひ置きたまへ。(源氏52・蜻蛉)

それにしても grep できるテキストファイルがあるのは便利。読んでないのに源氏から用例を拾える。

gvim

清水川さんが乗り換えてしまったという gvim。いつの間にか、iminsert なんて変数ができてて、Esc でコマンドモードに戻ると IME がオフになったりするようになっていた。昔からそうでした? だとしたらその時は気づかなかったのか。

そういうわけで、じゃあいよいよ乗り換えてみるかと少しいじってみたんですが、やっぱり日本語に弱いのは正直きつい。これはプログラマのためのエディタだ。そもそも「行を折り返す」ということ自体が例外的なケースという目線なので、その時点で自然言語の文章(ようするにこういう普通の文章)をせこせこ書くのに向いてない。プログラマだから普通の文章も gvim で書くというのはかっこいいけど、俺プログラマじゃないすから。これを使おうというのなら、テキストエディタで日本語を書くというこれまでやってきた作業において抜本的な習慣の改変を迫られることになる……。ていうか、それって VZ と整形マクロの世界に逆戻りだよなあ。

「折り返しは必要か」とか、「禁則は必要か」とか、ものすごく根本的なところを己に問い直さないと gvim 常用には踏み込めない。だけど今、21世紀じゃん……。

UAX #14, #29 を実装していてマクロ言語が Python のエディタ、どっかにないかなあ。誰か作って!!

(整形処理をせずに)折り返し表示でずらずら普通の文を書いている時の数少ない欠点は、バージョン管理した時に diff がものすごく見づらいこと。でもそれは、折り返して表示してくれる diff があればいいことなんですよ、ほんとは。

でもいろいろ考えさせられた。

シールをめくると

シールをめくるとこの場で当たる!

そういう意味じゃないよ。

追記: Safari で写真が表示されてなかった。

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2008-07-01

今年も半分が終わってしまった。

さて、体調を崩してから、「まともに生活する」ようにしてみたけど、生活というのは忙しいすね。日曜日も、朝食作って、食べて、掃除して、洗濯して、皿洗って、昼食作って、食べて、洗濯物干して、皿洗って、……などとしているとまったく休まる暇がない。しかも食事している時以外はつねに立っている。食事だって15分ほどで食べ終わってしまう。作るのにはその倍ぐらいかかってるというのに。くたくた。まともな生活をしてたら、古文なんて悠長なもの読んでる暇はない。つまりまた生活は次第にまともでないものになってゆくのでしょう。生きるのは召使いになんとやら。

ブラウザのシェア

emptypage.jp の、ある日のアクセスログから。

IE 6 515
IE 7 193
Firefox 3 187
Firefox 2 161
Opera 9.x 55
Safari 3.1 21

(Firefox 2 も Safari もいまだ col 要素に対応してないじゃないか。ACID テストどころじゃないすよ、もう! Opera は対応している。えらい。対応していると、上の表の数字は右寄せで表示されます。追記: Firefox 3 も未対応。もう HTML 標準への関心は薄れてきているのだろうか。)

すでに Firefox 3 が 2 の数を超えているところがすごい。これを見る限り、Safari はまだものの数ではないですね(ちなみにこの日のはすべて OS X だった)。そして、IE 6 を「切る」ことはまだ当分できないだろうということもわかる。うちのお客さんは保守的なのね。

サイトによって訪問者の層が違うのだから、ニュースサイトとかで報じられているようなブラウザのシェアなんてのはあんまりあてにならないもんです。

枕詞

枕詞の本質を考えるのには、それがどんな語に冠せられるのか、その被枕の語にも注意する必要がある。右の例に即して考えてみよう。古代の人々にとってはとりわけ、「夜」は不思議なことの起こりかねない恐怖の時間帯であり、また「母」は子を産むことのできる驚異的な存在であったはずである。同じように、自然の脅威にさらされがちな海を「わたつみの海」と言い、神の降りる場所である山を「あしひきの山」と言い、また超越的な偉力とみられる神を「ちはやぶる神」と言い、これまた絶対的な力を発する天空に関して「ひさかたの天」などと言う。

古代の人々はこのように、畏怖すべきもの、驚異的なもの、崇高なもの、偉大なもの、大切なもの、美しいものなどを言う場合、そのイメージを繰り返し言うような形で、枕詞を用いて強調したのである。そのような言葉の用い方の背後にはおそらく、かれらの生活の中の広い意味での信仰的な心情が作用していたものと思われる。日常的な言葉の通じあいでなら「夜」「母」だけで済むところを、あえて重々しいひびきを帯びたきまり文句として、「ぬばたまの夜」「たらちねの母」と言うところに、日常性からややあらたまった感じがもたらされる。その非日常的なひびきは、超越的な信仰の力とふれあうことにもなろうが、それとともに言葉による想像力を豊かで鮮明なものにしている。冒頭の二首から「ぬばたまの」や「たらちねの」を抜き取ってしまったら、そのイメージの鮮明度はいたく低下するであろう。

鈴木日出男『古代和歌の世界』、pp. 63-64、ちくま新書、1999年。

IME

上の引用を打っていたら、ATOK は「即して」を「則して」としてきた。それで気になったので注意しながら打ち進んでいくと、

  • 右の例に即して考えてみよう。
  • 「夜」は不思議なことの起こりかねない恐怖の時間帯であり、
  • そのイメージの鮮明度はいたく低下するであろう。

という箇所で、ATOK 2008 は最初の変換候補として次のようなものを出してきた。

  • 右の例に則して考えてみよう。
  • 「夜」は不思議なことの怒りかねない恐怖の時間帯であり、
  • そのイメージの鮮明度は委託低下するであろう。

気になったので、MS-IME 2003 に切り替えて同じ部分を打ってみる。

  • 右の例に即して考えてみよう。
  • 「夜」は不思議なことの起こりかねない恐怖の時間帯であり、
  • そのイメージの線明度は痛く低下するであろう。

最後の文は、MS-IME は文節区切りを間違っていた(その/イメージの/線/明度は/痛く/低下するであろう)。「痛く」は間違ってはいないけど、ひらがなのほうがいいだろうね。

経験上、MS-IME には、あまり使わない言い回しは間違えやすいという、ある種のわかりやすさがあるんですが、ATOK 2008 にはまたそれとは違った間違い方の癖があって、それにまだ慣れていないせいでことさらに癪に障るのかもしれない。

それにしても、いま現在、一般的な文章を連文節で入力・変換させてこの両者の結果を比べてみたら、巷で言われているようにほんとうに ATOK のほうがはるかにまともな結果になるのかどうかは、なんとも言えないんじゃないですか。ATOK をしばらく使ってみての、現時点での感想。けっして貶める意図はないですよ。それに、今回比べた MS-IME 2003 は、ATOK を入れる前までに一年以上使っていて、そのぶんの学習が効いているかもしれないし(だけどこの文章自体を入力するのは初めてなのだから、学習がそんなに影響しているとは考えにくい)、比べた以外の部分で大きく間違ったかもしれない。

MS-IME は 98 だか 2000 だかの頃に、学習を過剰に行うせいでしばらく使っていると突然変換効率が落ちるということがありました。だから仮にまっさらの状態で変換効率を比べても、一面しか測ったことにはならないのではあるけれど。

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2008-06-25

木曜日に風邪を引いてしまって、それから何日もダウンしてました。みんな気をつけよう、今年の風邪は腹に来る。

ずっと寝てたので、枕草子は進んだんじゃないかというと、そんなことはなかった。エネルギーがないので頭が回らない。一行読む前に疲れてしまう。もう治りかけのときにちょっと読めたくらいでした。しかしそのちょっとの間に読んだのが、こんなだった。

〔一五八〕 うらやましげなるもの 経など習ふとて、いみじうたどたどしくわすれがちに、返す返すおなじ所をよむに、法師はことわり、男も女も、くるくるとやすらかに読みたるこそ、あれがやうにいつの世にあらんとおぼゆれ。心地などわづらひて臥したるに、笑(ゑ)うちわらひ、ものなどいひ、思ふ事なげにてあゆみありく人みるこそ、いみじううらやましけれ。

(意訳) うらやましく思うもの 経文を習うとなると、わたしなどは読みぶりもたどたどしくて、忘れて抜かしたりしながら何度も同じところを読むことになってしまう。ところが法師は当然だが、男でも女でもくるくると難なく読む者もいて、いったいいつになったらあんなふうになれるのやらと思わずにはいられない。気分や体調を崩してふせっている時に、にこにことおしゃべりをしながら事もなげに歩きまわっている人を見るのも、うらやましく思われてくることこの上ない。

病をしてみないとわからない健康のありがたさという。訳もしてみた(「くるくる」というのが気に入ったのであえて残す)。暇さえあれば古文関連の何かを読んでいたので、生活もずいぶん荒れてました。それで体調崩したのかもしれない。端的にいえば馬鹿です。

ところで dt 内に blockquote って書けないんですね。dt: 原文、dd: 訳文、としたかったのに。

LaTeX

枕草子を読みながら、最近、いくつか気に入った段を現代語訳するというのをやりはじめました。いまのところは、訳して、印刷して(PDF にして)、とっておくだけですけどね。で、当然縦書きで出力するわけですが、これはいったい何で清書したものか。WZ の縦書き印刷でもいいといえばいいんですが、やっぱり約物とかが間延びするし、内容上ルビを振りたいところも多い。そんなときのためを思って買った一太郎だろ、ということでちょっと触ってみたんですけど、いまどき Esc でメニューが出るようなアプリははっきりいって使いたくないと思った。それに、推敲はエディタでやりたいんすよ。

というわけで、TeX (pLaTeX) かよ、という話に。僕は TeX はあんまり好きでないのです。そのうちフロッピーディスクなんかと一緒に過去の遺物になるかと思ってました。なんかアドホックな感じの命令体系に見えたし、へんなロゴを出力させて自画自賛してるのもあほらしかったし、ソフト名の発音からして聞きたくもない蘊蓄がまとわりついていて、コミュニティは「TeX と LaTeX は全然違います」とかどうでもいいことを初心者に高飛車に言い放つ大人げない人びとの集まりに思えたし、変数名にすぐローマ字を使うし、命名規則の慣習が確立されてないし、名前空間的なものがないし、作者が死んだら手を加えるなとか言っているらしいのも気に入らなかったし、まああらかた偏見なんですが、あまりいい印象がなかったのですよ。だからいままで習得を意図的に避けてました。

しかし縦書きのきれいな PDF がコマンドラインから作れるのは、いい。誰も代替を作らないから、いつまでも残るでしょうね。

まさか推敲を TeX のソースでやる気はしないので、テキストファイルから TeX ソースに変換するテンプレートを作って、Makefile を書く。テンプレート言語には texttemplate.py を使います。おお便利じゃん、と自画自賛。

tex.tmpl
{% exec %}¥
encoding = '{% encoding %}shift_jis{% end %}'
import re
import sys

def filter(data):
  # {漢字|ふりがな} をルビにする。
  return re.sub(r'{([^|]*)¥|([^}]*)}', r'¥kana{¥1}{¥2}', data)

{% end %}¥
¥¥documentclass[landscape]{tarticle}
¥¥usepackage{furikana}
¥¥begin{document}

{% for line in sys.stdin %}¥
¥¥noindent {{ filter(line.decode(encoding)) }}
{% end %}¥

¥¥end{document}

これで、python -m texttemplate tex.tmpl < foo.txt > foo.tex ってやる。

それにしても WZ の縦書きサポートはたいしたもんです(編集は横書きでやってますが)。ちゃんと不具合をつぶしてくれれば、やっぱり Windows では最強のエディタだったんじゃないかな。惜しいことをした。

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2008-06-18

喫茶店で隣の客が「ネットワーク」で「クラスタ」云々と言っていたら、計算機の話だと思うでしょ?

ところがこれが水の話だったのでした。水商売

ねず-なき【鼠鳴き】〔名〕ネズミの鳴き声に似た声を出すこと。また、その声。[例]「雀の子の、――するに踊り来る」<枕草子・うつくしきもの> [訳](かわいらしいものは)雀の子が、(人が)ネズミの鳴き真似をすると跳ねながら来るの

『ポケットプログレッシブ全訳古語例解辞典』小学館

おまえわざとやってるだろう。(前科

たぶん、この「の」って「もの」という(「この鉛筆はぼくだ」というのと同じ)意味で使ってるんでしょうね。まあ野暮ったいことはいいっこなしか。

この辞典は用例が枕草子にやたら偏っていて、枕草子を読みながら語義を引いていると、読んでいるそのものずばりの箇所が用例として訳付きで挙げられてるのに出くわすことが多い(あんまり嬉しくはない)。他の古語辞典だと源氏物語の用例が多いのがふつうなんですが。編者の専門が枕草子なんでしょうかね。

いもうとせうと

清少納言は生涯で三度、結婚と離別を繰り返しているのですが、最初の夫が橘則光(たちばなののりみつ)という人です。で、少納言はこの人とは離婚後もけっこう仲がよかったらしく、分かれた後もお互いに「いもうと(妹)」「せうと(兄)」などと呼び合っていたらしい(八二段)。しかもこの恥ずかしいあだ名は公知だったらしく、則光は宮中の他の殿上人からも(役職名ではなくて)、せうと、せうと、と呼ばれていたそうです。

ふーん、と思うでしょ。で、僕はこれを読んだときに、昔 Amazon.co.jp がおすすめしてきたやつのことを思い出してひらめいたのです。「あっ、これってそれで思いついたな!」と。

もちろん清少納言の明るい性格だけでもこういうマンガを作る下地はあるといえるんでしょうが、もし僕が当代の若手漫画家だったら、このエピソードを聞いた瞬間に「これはいける!」と思ったはず。ちなみに読んでないのでおもしろいかどうかは知りません。

漢文

古典を読んでると、やはり漢文の知識が必要になってくる。弱った。自慢じゃないけど僕は漢字漢文がほんと苦手なのよね。西洋文明至上主義者だったからね、ははは。清少納言は漢籍が得意でうらやましいなあ、とか思うわけですが、ちょっとくらいは漢文も知らないといけないような気がしてくる。とりあえず原田種成『漢文のすゝめ』という本を手にしてみましたが、この先生はすごいすね。

漢文一筋の人生を送って八十歳を超えた今、漢文を軽視する傾向が強い現状を見て日本の学術文化および日本語の将来について心配することが多い。

日本人は日本語で考える。だから語彙が貧弱であると、思考力も貧困になる。日本語の語彙を豊かにするには『源氏物語』や『枕草子』の類からは得られない(原文ママ)。漢文こそ日本語の語彙の宝庫なのである。

原田種成『漢文のすゝめ』新潮選書、1992年、p. 223

主張はよくある話なのでどうでもいいですが、これがおもしろいのは国文学者のコンテキストだと漢語と外来語こそが日本語を不自由なものにしてきたという認識に持っていきそうな話なのに(じっさいにそんな単純なこという人はいないと思いますが)、まったく反対の解釈から、しかも同じ結論を導き出しているというとこです。

日本人の仲人は何時ごろから始まったか、『源氏物語』には仲人など全くなく、中には強姦が四件ほどある。

同書、p. 227

なにこの言及の仕方。

しかしここまでの堅物だとかえって信頼感が沸いてきます。この人は『大漢和辞典』の執筆に携わったたいへん偉い人なのです。

と、偉い人に感化されてひとつ白居易のやつでも読むかと思ったのですが、どうもしっくりこない。平安時代の人たちはほんとにこれをいいと思ったのかな。人気あったんですよね。なんかとりつく島がないというかなんというか。鑑賞の仕方がわからん。ムードだけじゃん? とか言うと、怒られるのかな。

オレオレ箴言

141 われわれはよく、自分は少しも退屈しないと自慢する。そしてすっかりつけ上がっているから、自分が一座をうんざりさせる人間であることを認めようとはしないのである。

二宮フサ訳『ラ・ロシュフコー箴言集』岩波文庫

あ、おれおれ、おれだけど!

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2008-06-12

赤ちゃんは「じじ」「ばば」から「じいじ」「ばあば」というHLの構造は作り出すが、「じじい」「ばばあ」というLHの構造は作らない。「じじい」「ばばあ」は子供心を失った大人の言葉であり、また大人の世界でも非常に悪いニュアンスを持っている。

窪薗晴夫『アクセントの法則』、p. 51、2006年、岩波書店

なんか笑った。

本居宣長のいう「徒」について 完結編

あー、うやむやにしておくのは気持ち悪かったので、『詞の玉緒』借りてきた。ざっと流し読み。すると、「徒とは こそ などいふ辭のなきを今かりにかくいふ也」とある。この説明や、あげられている例を見る限り、「徒」というのはやはり係助詞を含まずに用言で終わる文、ということのようです。

「徒」の例としてあげられている歌(ちなみに宣長はこういう歌の用例のことを「證歌(証歌)」と呼んでいる)。

おちたきつ瀧のみなかみ年つもり老にけらしな || 黒きすぢな (古今十七)

あなこひ || 今も見てしが山がつのかきほに咲るやまと撫子 (古今十四)

かきくらす心のやみにまどひにき || 夢うつゝとは世人さだめよ (古今十三)

『詞の玉緒』は分量のほとんどが証歌すなわち用例の提示にあてられている。過去に用例がある、というのをひじょうに重視していたことがわかります。「全集」の解題によれば、半紙を二つ折りにして一面に33行ずつ、古典文学作品から歌だけをカタカナにして書き抜いて作った自筆資料が(冊子の形で残っているものだけで12冊、さらに綴じてないものが100枚以上)残っている。写真を見る限り、係助詞別に整理していたようです。前も書いたような気がしますが、ああ、こういう人にパソコンがあったらねえ。

ただし、宣長は用言の語尾の終わりかたに注目しているだけで、彼の中にはまだ「品詞」という概念が確立されてないという点には注意しなければいけない。だから、動詞の活用形とそれに続く助動詞とを厳密に区別できていない。解題に指摘されているように、「流るる」という語と「頼まるる」という句を「る・るる・るれ」の例としてひとくくりに扱っている。今日では「流るる」は動詞「流る」の連体形、「頼まるる」は、動詞「頼む」の未然形+助動詞「る」の連体形、と理解されるものです。そして、どうも「ぞ」「や」などの係り結びの結びと、名詞の前に「続く形」(「流るる河」の「流るる」など)が同じもの、つまり連体形という活用形、であるとはわかっていなかったんじゃないかという印象も受ける。

古文の構文

品詞という概念においては、同時代の国文学者、富士谷成章(ふじたになりあきら)のほうが先んじていた、と。『あゆひ抄』。読んでませんが。

しかし、現在の文法が品詞に重きを置きすぎて、いわゆる「文型」をまったく提示できていないのにたいして、宣長の記述には文型の研究といってもいいようなものの萌芽が見られるようにも思える。英語の5文型とか、フランス語の6文型といったようなものは、語学をする者にとってはひじょうに役に立つものですが、日本語には古文にも現代文にもそういうものが、まだない(よね!?)。宣長は文中で句をまたぐ「係り」と「結び」に注目していたので、必然的に文全体に目がいったのではないかと思う。

たとえば「は」の解説では、体言で結ぶ「は」(「笠うめの花笠」)や、「…を…は…」の類例(「山のかすみあはれと見よ」)などを集めて考察しています。「ましかば」の後には「まし」で終わる句が来るとか、入れ子になった係り結びは間に「と」が入っているとか(要は引用の「と」です)、文の構造についての観察は多い。

宣長に限らず、国学での係り結びの研究はそのまま続いていたらある種の文型論までいってたんじゃないかという予感もするのです。

それではなぜそうならなかったのか、というと、明治時代に西洋の文法学を盲目的に取り込んで、それまでの研究を断絶させてしまったのが一因としてあると思われる。

『国語学史』という本に、明治時代の文法論の本の目次が紹介されてるんですが、これがなかなかすごいです。

明治維新以降、西洋文典の日本語への適用による日本文法論が現れたが、中でも詳しいものが田中義廉(よしかど)の『小学日本文典』(明治八年刊)である。文法論全体の構成は、[七品詞の名目][名詞、名詞の性、名詞の種類、集合名詞、名詞の格][形容詞、形容詞の詞尾、形容詞の名詞、数形容詞][代名詞、人代名詞、疑問代名詞、復帰代名詞、指示代名詞、不定代名詞][動詞、動詞の種類、動詞の活用、分詞、助動詞、動詞の法、動詞の時限、配合の例、動詞の定音、集合動詞、転成動詞][副詞、副詞の品類、転成の副詞][接続詞、第一種の接続詞、第二種の接続詞、接続詞の品類][習煉]である。品詞中心であり、西洋文典の構成にならったものと言える。品詞についての論の内容も、「名詞の格」「名詞の性」「集合名詞」「分詞」「復帰代名詞」など、いかにも西洋文典の直訳的である。日本人による研究で重視された「係りと結び」については全く論じられていない。

馬渕和夫・出雲朝子『国語学史 日本人の言語研究の歴史』、pp. 94-95、1999年、笠間書院

「名詞の性」なんて章が日本語についての本でそもそも立てられるのかと、これには驚愕した。いったい何が書いてあるんだろう。西欧コンプレックスここに極まれりです。しかしローマ字で国際化とかサマータイムとか言ってる連中がいる限り、いまだわれわれもこれを笑い飛ばすことはできませんぜ。

僕は高校時代の古典の授業はおもしろいと思った記憶がまったくないんですが、ひとつにはそのあまりにも場当たり的な読み進め方に学問としての魅力を感じなかったというのが理由としてあると思う。時代も伊勢物語やったかと思えば奥の細道やってみたりと、あっちこっちに飛ぶ。そこまで時代が隔たっていれば、文法的にはまるで違ってくるというのに、たんに「古い言葉は今とは違う」という程度の印象しか抱かせないまま辞書を引かせて、品詞分解ばっかりさせている。「文法が違う」というのを「単語が違う」というのと同列に扱っているのはあんまりだと、今なら思う。そして構文的なことは反語も係り結びもぜんぶ「強調」で片付ける。これはよくないよ。国語の先生は文法が嫌いだから? しかし、文法を理解せずに鑑賞をすることはできませんよね。けっきょくのところは、日本語というよりは、たんに教養を教えたかっただけだったんでしょう。

本文を読む前に、解読のガイドラインとしてその時代ごとの特徴的な構文を解説するなどしてくれていれば、少しは古典の授業もインテリジェントな営みに思えたような気がする。なんか、印象が作業的だったんですよね。

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