2008-08-20

「ファイアーエムブレム」のために DS を買ったものかどうか迷う。

清少納言松島日記

「清少納言松島日記」という旅日記があるのです。これは「老尼となった清少納言が、都から陸奥国の松島に下ったときの旅日記」ということなんですが、じつはそういう設定で書かれた、後世による偽書です。引用した説明は「日本古典偽書叢刊」第二巻のもの。そういう叢書があるんだねえ、と思った。松島日記は、9ページしかない短い文書です。あとかわいい挿絵付き。

同書の解題によると、

近世には清少納言晩年の紀行文として重視され、たとえば、伊勢貞丈は本日記を清少納言の自著と断じて考証を進めた。しかし、本居宣長が『玉勝間』で「めづらしくおぼえて、見けるに、はやくいみじき偽書にて、むげにつたなく見どころなき者也」と評して以来、現在では偽書と認めるのが妥当とされている。

「日本古典偽書叢刊」第二巻、p. 28、現代思潮新社、2004年

というものらしい。伊勢貞丈(いせさだたけ)は、ウィキペディアによると江戸時代の有職故実研究家。本居宣長とほぼ同時代の学者ですね。『玉勝間』での言及は二の巻の「松島の日記といふ物」という段にある(こういうとこをちゃんと書いてくれないと、探す側としては困るのよ)。

内容は、「道中行きずりの人々が親切にしてくれる」といった、清少納言が書きそうもないこととか、山で夜を越していると麓の里で火が起きて村がすっかり焼けてしまったが居合わせた僧や翁はちっとも驚かないといった、いかにもなエピソードだとかです。解題に「鎌倉期の往生観念の影響が見られる」とあるように、どことなく無常観が漂う文章で、このことも鎌倉期以降成立という偽書説の根拠のひとつである、と。

しかし内容を云々するよりも、これは文体をみれば一目瞭然で、一条院時代の文章とは随分違った感じです。有職学者としては「いい話だから本物だよきっと」ということなのかもしれないけど、宣長にしてみれば冗談じゃないと思ったことだろう。というのも、この日記では係り結びがぐだぐだに崩壊している。

「や/か」…(連体形)の文は、終止形と連体形が同型の語しかないので、どちらが使われているのか判別しがたい。

  • 木の丸殿にあらぬ嫗の旅、誰し名のりごち咎めかし。
  • いとどしく、后の宮の御面影、御堂殿の御栄えの末も、夢よりはいくらまさりけん

「や」は終助詞的な使い方が多いです。「いくらか」は副詞的で、係り結びを意識していたかどうかはこれだとよくわからない。

「こそ」を使ってる文がふたつあるけど、已然形で終わるのはうやむやな感じ。

  • ……十日ばかりさすらうてこそ、武蔵野の末の古河(こが)の渡りといふに至る。
  • ……「逆さまなる仏事は仏の厭ひ給ふこと」とこそ、何がしの経に侍るものを、さいへど、善を積みて、我を罪にも落とせね、さはれ、生きとまるべき身にし侍らぬ。

前者は完全にアウトだし、後者は「いへ」「落とせね」(これは命令形「落としね」の誤かと註に)がそうかなあ、と言えば言えないこともないけど無理がある。「ものを」は順接・逆接の条件を表す接続助詞だから、「こそ……侍れ、」としてれば確実だったんですが。また逆に、この「侍り」の箇所で已然形が出てこなかったことが係り結びの崩壊している証拠になってしまっているような気がする。

「なむ(なん)」を使っている文もいくつかあるけど、どれもなんとなく名詞で終わっているか、終止形と同形の動詞で判別できない。

  • 石山の方、三井寺の方の行く雲をなむ、在五の朝臣のごと、「うらやましく」などと独りごちぬる夜まれなり。
  • ゆくゆくとしもなき旅になんありぬることよ。

後者は「なんありぬる。」でびしっと終わってたらよかったんですが、あとに名詞の「こと」を続けてしまいました。

「ぞ」…(連体形)の例はない。

こういう細かいところが積もり積もって、全体として読んでいてぐだぐだの印象を受けるわけです。「すかっと已然形で終わらせろ!」と宣長先生も息巻いたに違いない(註:宣長は已然形という言葉は知らなかったはずだけど)。

  • 里にまかでたるに、殿上人などの来るをも、やすからず人々いひなすなる
  • にくしと思ひたりし声ざまにていひたりしこそ、をかしかりしにそへておどろかれにしか
  • なにしには、知らずとはいひ

上は枕草子から適当に抜いたものですが、このように曖昧さなく、びしっとした例がいくらでもあるのです。終止形はそれぞれ「なり」「き」「き」なので、どれも明らかに連体形と判別できる。こういう明らかな例が松島日記からは見つからない。

松島日記を読んで宣長が「俺の『手枕』はもっとびしっとしてるぜ」とか思ったのかどうかは定かではない。

ストリートファイターIV

駅前歩いてたらゲームセンターに幟が立ってたので入ってみたところ稼働してました。やってみると「スパ II X」に近い操作感。「III」は神業的な人のプレーを見るのは楽しかったけど自分ではついていけなかったから、駆け引きのバランスとしてはこれくらいが丁度いいのかも。

新宿だとレベルが高すぎて入る余地がないので地元でこつこつ修行をする。

2008-08-07

もう八月かあ。

本屋に行ったら『テレプシコーラ』の第二部第一巻が売っていた。よかった、ちゃんと続くのね。

更新情報

Matthew Paul Thomas さんの、“Why Free Software has poor usability, and how to improve it” の日本語訳、「オープンソースのソフトが使いにくい理由とその対策」を公開しました。

この記事は、スラッシュドットで知りました。昔のバージョン(「どうして〜アレなのか」)を発展させた内容ですが、今回は原因だけでなく、対策まで分析されてますね。言いたい放題だけど、こういうの好きだ。「使える GUI デザイン」の記述も彷彿させる。

最初 Matthew Paul Thomas さんに公開の可否を聞くつもりだったのですが、よくみると原文である Thomas 氏のブログにはコンタクトをとる手段がない。そういうポリシーなのでしょうか。オープンソースらしくないな。ブログだからトラックバックとかいうやつはできるのかもしれませんが、あいにくうちにそんな贅沢なものはない。というわけで前回に続き今回も勝手公開です。CC でライセンスを明示してくれるだけでも精神衛生上はよいのですが。

WZ6

オープンソースじゃないんですが、この人の記事を訳すと毎回 WZ のことを思い出す。

そういえば、WZ6 のこともスラッシュドットで取り上げられてましたが、そこで怪作「校庭周回マクロ」の NaruTo さんを発見。お元気そうでなによりです(同窓会か)。

WZ6 には乗り換えないので、もうプレビュー版も試さず 2ch を野次馬してるだけです。しかし、5 の時に、申し訳なく思いながらも懇々と口説いてようやく「ふつう」の UI にしてもらったもろもろのフィーチャーが、「一から書き直しました」の名の下にことごとく薙ぎ払われてしまっているらしいのを見るにつけ、よのすごうあだなるをこそおもひしらるれ。

ただの小言としか思われてなかったんだろうな。

ThinkPad X200

英語キーボードの写真が超超超打ちやすそうなので、日本語キーボードがどうなってるか見たい。あと事前の噂では、1.1 kg 代の、X200s が出るとか言われてたけど、あれはガセだったのかな。残念。しかし重量がほとんど同じなんじゃ、X300 と差別化ができてなくない? X300 の価格も下がってきてるし。まあトラックパッドが付いてないというアドバンテージはあるけど。

レビューサイトで最後のまとめに「欠点: マニラ封筒に入れても収まりが悪い」って書いてあったのがおもしろかった。

2008-07-30

わかってるんだぜ。君ら先週の本居宣長のところは読み飛ばしただろう。

WZ6

さようなら。

枕草子登場人物早見表

「*」はその人物がその章段に登場すること、「@」はその人物がその章段で話題に上っていることを表します。

早見表といいつつ表がでかすぎて早見できないけど。PDF 版もあるよ(追記。もうありません。)

これは枕草子自体を読むときにはあまり使い道はなくて、別の本で枕草子についての記述に出くわしたときに使う。たとえば、「清少納言に藤原行成がこんな歌を送った時、云々」なんて述べられていたとする。そこで原典にあたりたくなったと。出典としてどこの段であるかまで書かれていればいいのですが、「枕草子」としかないことが多い。そんなときにこの表を見れば、行成が出てくるのは 9, 49, 133, 136, 137 段のどれかであるというところまで絞れるので、時間の節約になるというわけです。

Last.fm のラジオ機能が日本語対応

えーと、ニュースサイトもあんまり取り上げてないようだけど(見落としてるだけ?)。

Last.fm がリニューアルして、日本語インターフェースでもラジオが聴けるようになってるぞ! Last.fm Player も、いままで日本語版とその他版の二本立てだったのが統合されて、やっとラジオを再生可能に。日本語版ウェブページの下部には、燦然と輝くショッカーのエンブレム! 長かった……。これでやっと他の国と同等のまともな音楽サイトになったといえる。でも、遅すぎだよ。遅すぎたせいでもうそっぽを向かれてしまい、重要な前進だというのにさっぱり盛り上がってない。この調子では、iPhone で聴けるようになるにはあと 15 年くらいかかるのではないだろうか。「着うた」の既得権益勢が必死になって潰しにくると思われる。

もっとも、いまさら変えてもなんか落ち着かないから、自分は英語 UI のまま。

ただ「ラジオが聴けるようになった」ってことを発表するプレスリリース的なものが見あたらないんだけど。リニューアルの発表の翻訳らしきものはあったけど。これじゃ今まで日本ではラジオ聴けなかったという事実自体がなかったかのような扱いじゃないか。

まだどこが変わったかよくわかってないので、あとで blog.last.fm を読んで確認しよう。

WZ6

まあさようならだけじゃなんなので。

数年間なにをやっていたのかと思ったけど、蓋を開けて出てきたものがこれだというのなら残念すぎる。今までできていたところを一から作り直して同じようなものにしたって意味がない。

それに、かれらは「一から作り直した」宣言をすれば今まで報告されてきた不具合が無効になるとでも思ってるのだろうか。

  • [WZ5-0367] 正規表現検索「<A[0-9]{0,2}>」に文字列「A」がマッチしない。(WZ6 でも再現。)
  • [WZ5-0361] 正規表現検索「^」の再検索ができない。(WZ6 では 2 回再検索しないと次のマッチに移動しない。)
  • [WZ5-0346] 色分けスタイル「なし」での C 言語色分けでのコメント色分けの不具合。
    /* test1 
    test2 */ /* test3 */
    
    while( 1) 
    

    これで /* test3 */ が色分けされない。(WZ6 でも再現。)

  • [WZ5-0300] 文字列検索で、[空白と記号をスキップ]がオンの場合に、検索語に空白や記号が含まれている文字列の検索ができない(ヒットしない)。(WZ6 では検索モード[基本]で[空白と記号をスキップ]オプションが効いていないように見える。)
  • [WZ5-0236] URL を「色分け」していると、それを含む範囲色分けなどが効かない。(WZ6 では URL を含むコメントでそれ以降すべてがコメント色になる。)

これらのことからわかるのは、色分けと検索についての実装は旧来からほとんど変わっていないということです。これは色分けと検索関係ですぐに確認できるのを適当に選んだだけだからね。15分もあれば確認できることですよ。ちゃんと調べればもっとあるかもしれない。だれかあの会社に行って Subversion と Trac のことを教えてあげなよ、ほんと……。

「PERL」とか「RUBY」とか、あいかわらず固有名詞をちゃんと表記しないし。

プリセットされる色分け設定に Python も JavaScript も C# も Objective-C もないところにかれらの旧さが表われている。Python はセンスの悪い人間のアンテナには引っかからないのだ。

それでいつ出すんです? 「2008年秋 予定」と、あいかわらずですね。

2008-07-25

「とぞほんに。」まで読んだ

〔一〇七〕 ゆくすゑはるかなるもの 半臂の緒ひねりはじむる。陸奥國へ行く人の、逢坂越ゆる程。産れたるちごの大人になる程。大般若の讀經、ひとりしてはじめたる。

難しいところがあったり若干忙しかったりで思ったより時間がかかったけど、ようやく『枕草子』を読み終えた。去年の11月頃から読み始めたので、およそ9か月かかったことになる。

ほとんどつねに(古語辞典とともに)持ち歩いていたので、小口のところなどすっかり薄黒くなっている。なにせ予備知識ほぼゼロからはじめたものだから、本文に出てくるほとんどすべての単語について辞書を引いたと言ってもよく、書き込みのないページもほとんどない。不明点に「?」印を付けてそのままのところも多いので、それらについては追々気が向いた時に調べていこうかと思ってます。いまやこの文庫本は自分なりの注釈書として捨てられないものになってしまった。

そして読み終わったその日に、『紫式部日記』を買ってきた。これは薄いからすぐ読み終わるよ、きっと。

玉あられ

『玉あられ』は本居宣長が、古文の初学者向けに書いた心得書のような冊子です。読解というよりは、作歌や擬古文をものす人を対象にしてますが、近世以降の人間が間違えやすいところを(ちくちくと)的確に指摘しているので、現代人でも読むと役に立つ。適当に気になったところを引用。

句点がなくて読点だけで、ものすごく読みにくいけど、もとがそうなのよ。文中の“「”は原文では庵点(歌記号)というものになってます。まあ使い方がほぼ鉤括弧なのでこれで。「某なる者」とか「いと」などの節には、なるほどねえ、と唸らされるものがある。

歌の部

やすめ詞のもじ、おきざまあしきは、いと聞ぐるしき物也、ちかき世の歌に、「道ある世、などおほくよむ、これら「道あれといふときは、もじ優(イウ)なるを、下を「あといふところにおきては、こちなく聞ゆるなり、餘もこれになずらへてわきまふべし、すべてかやうのこと、古の歌をよく考へて使ふべき也、

と受る上の格

「花咲き といひて、「咲ぬる とはいはず、「郭公聞 といひて、「聞つる とはいはず、

もじたらぬ語

又文には、かならずもじをいくつも重ねていふべきことも多きを、その重なるをいとひて、略(ハブ)くこと、まだしき人の文におほし、そは中々にひがごとなり、古き物語などを見べし、必おくべき所には、いくつ重なりてもいとはす、重ねておけるをや、

詞に三つのいひざまある事

又文に、たとへば、古人のかける書、いへる説などの事をいふに、今その書その説をとらへて、其事につきていはむには、「云々(シカシカ)かける「云々(シカシカ)いへるといふべし、又そのかきたりし昔いひたりし昔の事をいふには、「云々(シカシカ)かき、「云々(シカシカ)いひといふべし、たとへば古今集序をとらへて、其事をいはんには、「此序は延喜の御代に貫之のかける也といふべし、又そのむかしの事をいはむには、「延喜の御代に貫之の此序かき時、或は「かきたり時などいふべし、然るを近世人は、すべてこれらのけぢめなく、「古今集の序は貫之のかき文なりなどやうにいふはたがへり、

なほ

なほは、俗言に、まだ或はそれでも或はやッはり、などいふにあたれり、然るを「いよ/\といふ意につかふは、後のこと也、

物から

此詞は、古今集夏「郭公ながなく里のあまたあればなほうとまれぬ思ふものから、此下句を、俗言にいへば、「思ひはすれども、それでもうとまれる、又、「思ひながらも、やッはりうと/\しく思はれる、などいふ意也、(中略)然るを今世の人は、いかに心得たるにか、「思ふからといふべき所を、「思ふものからといひ、「あらぬ故にといふべき所を、「あらぬ物からといふたぐひいとおほきは、たゞからといふと、同じ意と思ひ誤れるなめり、たゞから物からとは、おほかたうらうへのたがひあるをや、そも/\此詞は、歌にも物語の詞などにも、常におほく見えて、其意まぎるべくもあらぬ詞なるに、今世には、歌をも文をもよくよみかくと思ひおごれる人も、多くひがことあるは、いと/\かたはらいたきわざなりかし、

やらぬ

たとへば、「雪の消やらぬといふは、春になりて猶寒きに、雪もはやくきえよかしと思へ共、つれなくきえぬ意、「花の咲やらぬといふは、早くさけかしとまてども、さくことのおそき意、「道を行やらぬといふは、はやくゆかむといそげども、思ふがごとえゆかぬやうの意にて、やらぬは皆かくのごとし、然るを近世人は、これらの類をもたゞ雪のきえぬこと、花のさかぬこと、道をゆかぬこととのみ心得たるにや、或は花はまだちらであるを、「ちりやらぬといひ、「月のまだいらぬを、「入やらでなどよむ類多きは、ひがごと也、さては花を早くちれかしと願ひ、月をとく入れかしと願ふ意になるをや、

文の部
某なる者

すべて人の名をいひ出るには、或は、「其(ソノ)國に其(ナニ)といふ人あり云々、或は「むかし某といひし者の云々、などあるべきを、近きころの人の文には、「某なる人有云々、「某なる者の云々 などかく、此なるといふ詞、いみしき誤也、是も漢文の近年の訓點に、「有ナルと附たるを、見ならひて、書はじめたるなめり、漢文もふるき訓點には、トイフを讀付(ヨミツケ)て、「有トイフとよめる、これぞ正しきよみざまなるを、近年の人、なまさかしらに、しひて言ずくなによまむとて、ナルモノとは附たるなれど、然いひては聞えぬこと也、そも漢文はともかくもあれ、御國の文にさへ、さるひがことをまじふべきことかは、なるは、もとにあるのつゞまりたる詞なる故に、古の文には、あるは「中将なる人、「式部丞なる者、あるは「京なる人、「つくしなる者など、官又地名などにこそ、なるとはいひつれ、そは「中将の官にてある人、又、「京に居る人、という意なればぞかし、されば人の名に、「在原業平なる人「紀貫之なる者、などいへる例はさらになし、さいひては、「業平にある人、「貫之にある者、といふ意なるを、さてはなるといふこと、何のよしぞや、いと/\をかし、さしもさかしだつ近年の人、こればかりの事にだに心のつかで、いとみだりなるこそ、かへす/゛\かたはらいたけれ、

あづま むさし

今の世の人、江戸にゆくことを、或は「あづまにまかりける、或は「むさしの國にくだり給ふ、などかくはわろし、こは江戸といふ名を書を、俗なるやうに思ひてなめれど、地名なれば、なでふことかはあらむ、まさしく江戸をさしていふことには、たゞ江戸とかくこそよろしけれ、

とみに

とみにといふは、俗言に「きふに「早速にといふ意、とみの事は、「きふな事といふこと也、然れ共つかひやうのある詞にて、たとへば俗語に「きふには來(コ)ぬ「早速には出來ぬといふことを、「とみにも來(コ)ぬ、「とみにもいでこず、などはいへども、「早速に來(キ)た「早速に出來たといふことを、とみに來(キ)つ、とみに出來(キ)つ、などつかひたることなし、此わきまへ有べき也、今の人は此わきまへなく、みだりにつかふめり、

いと

いと寒し、「いとあつし、などいふいとは、つかひやうのある詞也、たとへば「いと戀し「いとかなしなどいふはよろし、然るを同じ詞ながらそれを、「いといとかなし、といひてはわろき也、「戀「かなしといふときは、いたく いみしく などいふ也、

時代のふりのたがひ

今の人の文は、時代のわきまへなくして、中昔のふりなる文に、奈良以前の詞も、をり/\まじり、又ふるきふりなる文に、むげに近き世の詞もまじりなどして、かの鳴聲ぬえに似たりとかいひて、むかし有けむけだもののこゝちするぞ多かる、

出典「本居宣長全集」第五巻、筑摩書房、1970年

「地名なんだから江戸でよい」とか、おもしろいよね。

繰り返しの「くの字記号」は(横書きなら「への字記号」か?)Unicode にはあるんだけど、フォントが横書きに対応してないみたいなので、好きじゃないものの仕方なく「/\」「「/゛\」を使った。

どうでもいいけど宣長は18世紀の人間なので、しゃべってた言葉はずっと現代の日本語に近いはず。なのに著作はどれもこんな調子なんだから、会ったらきっとめんどくさそうな人物だったにちがいない。

2008-07-18

↓↓↓ご覧の通り、枕草子の読了が近い。今週中とはいかないかもしれないけど、遅くとも来週中には読み終わるはず。

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だから(?)今日はこれにて。