2008-11-01

さて、新日本古典文学大系の源氏物語を買ってしまった。もう後には引けない。

そういえば、前回ちらっと言及した大野晋の『源氏物語』、あんなことを書いていたその月にちょうど文庫になっていた。岩波現代文庫。

(作用|形状)性(名詞句|用言)

古代語では、(1) のように、用言の連体形を、そのまま名詞句として用いることができました。これを準体句といいます。準体句は、主名詞が顕在していない連体句とみることができます。

(1) a 仕うまつる人の中に心たしかなる[人]を選びて(竹取)
b 昔、月日の行く[コト]をさへ嘆く男(伊勢 91)

(1a) のように、顕在していない主名詞にヒトやモノが想定される準体句を形状性名詞句、(1b) のように、顕在していない主名詞にコトやノが想定される準体句を作用性名詞句といいます(石垣謙二 1942)。

日本語の用言は、形状性用言と作用性用言との2つに分けられます。形状性用言とは、終止形がイ段音の語(形容詞・形容動詞・ラ変動詞、および「べし・たり・けり・き」などの助動詞)と動詞「見ゆ・聞ゆ・思ゆ・侍ふ・おはす・という・になる」、助動詞「ず・む・らむ・けむ」です。それ以外の用言は、作用性用言です。作用性名詞句(〜コトの意の準体句)の準体部に現れる用言には制限がありませんが、形状性名詞句(〜モノの意の準体句)の準体部に現れる用言は、一般に、形状性用言に限られます(石垣謙二 1942)。実際、(1a) は形状性名詞句ですが、準体部は形状性用言(「たしかなり」)になっています。例外は 1. のような句型で、作用性用言で形状性名詞句(〜モノの意の準体句)を構成する場合は、必ず主語になり、かつ述語は形状性用言になります(石垣謙二 1942)。

1. 猛き武士の心をも慰むる△は歌なり。(古今・仮名序)

したがって、たとえば 2. は、「渡り給ふ」が作用性用言なので、同格構文(「大臣の渡り給ふ[大臣]」)ではありえず、作用性名詞句(「大臣の渡り給ふ[コト]」を待ちけるほどに)ということになります。

2. 頼信、大臣の渡り給ふ△を待ちけるほどに(今昔 27-12)

作用性名詞句が主語になるとき、述語は必ず形状性用言になります(これを「作用性用言反撥の法則」(石垣謙二 1942)といいます)。すなわち、日本語には、2〜4. の句型はありますが、1. の句型は存在しません。

1. *子供の群がるが騒ぐ。 <作用性名詞句−作用性用言>
2. 子供の群がるが騒がし。 <作用性名詞句−形状性用言>
3. 子供の群がれるが騒ぐ。 <形状性名詞句−作用性用言>
4. 子供の群がれるが騒がし。 <形状性名詞句−形状性用言>

(小田勝『古代日本語文法』おうふう、2007 年、pp. 150-156)

注意して読まないと誤解する、ひじょうにややこしい箇所。

現代語で例の「リンゴが売ってる」問題を考えるのにも関係してくるかもしれないね。

形状性用言の定義は一見恣意的だけど、英語でいえば補語をとる自動詞(SVC の文型になるやつ、be, become, look, sound, etc.)というのにあたっている。

ノリナガ、こないだパーマかけたのよね

『玉勝間』二の巻。

宣長、縣居大人にあひ奉りしは、此里に一夜やどり給へりしをり、一度のみなりき、

宣長は、道を尊み古を思ひてひたぶるに道の明らかならんことを思ひ、……

宣長の一人称は「宣長」。そんだけ。

更級日記

昔より、よしなき物語、歌のことをのみ心にしめで、夜昼思ひて、おこなひをせましかば、いとかかる夢の世をば見ずもやあらまし。

(『更級日記』岩波文庫、p. 68)

訳 昔から、くだらない物語や歌に夢中になってばかりいないで、昼夜一心にやるべきことをやっていれば、こんな目には遭わなかったのではないだろうか。

最近忙殺され疲れてるせいもあるのか、いろんなことで自信をなくしたり悲観的な考えに走ってしまったりしがち。まさか平安女流文学の身の上を嘆く調子が乗り移ったというわけでもないけどさ。

それで現実逃避に古文を読む。健全でないが、悪いのは現実逃避でなくて、現実のほうで事態を改善する行動を起こす勢いがないことだね。

ATOK

どんどんあてにならないと感じるようになっている。「披露が激しく」とか。「酒という肴は」という変換を出してきたことがあるけど(「鮭という魚は」と書こうとしてた)、これなんて空気を読んだつもりで得意げに間違っているような変換だ。

2008-09-21

今日はおしまいに、「エレベーター」と「エスカレーター」、どっちがどっちだったかを思い出すための秘密のおまじないをご紹介します。ライフハック。

ATOK

ATOK の月額 300 円の販売モデルを「定額」と呼ぶのってへんじゃない? 定額というなら、パッケージを買った人のことでしょ。月単位の時間課金なんだから、「月極」とでもすればいい。変換量に応じてとか日単位とか時間単位で課金しているコースがあるわけでもなし。定額という言葉の意味をわかって使っているのだろうか。さすが正しい日本語のジャストシステムですこと。

紫式部日記

あと七、八ページなのでもうすぐ読み終わる。けっこうおもしろいことがあるんだけど、うまく書きにくい。

まずこの日記というのは、中宮彰子がお産のために父藤原道長の私邸に下がっているところから、皇子誕生、そしてそのお祝いにまつわる後日談などを、彰子付きの女房であった紫式部が書いた記録というのが基本。こうしたことを書いてある箇所は基本的に「めでたいムード一色」で書かれている。

ところが、書いているうちに紫式部の気が滅入ってきたのか、「つらい世の中」とか「みんながわたしを嫌っている」みたいなことを言い始める。そしてだんだんそういう陰鬱な記述が増えてきて、終わりに近くなると、突然、消息文(つまり手紙文)になってしまう。これはどうも本文の原稿を道長か誰かに送ったときに、故意か事故かはわからないけど、それに付けた私信部分も書写されて流通してしまったような感じ。

で、その消息文のところでは内裏の女房のだれが可愛いとかなんとかみたいな人物評になっていく。そして話は外見から人間の中身のほうに移ってきて、和泉式部・赤染衛門・清少納言をむちゃくちゃに言い落とす、有名な批評を述べたてる。そのあと、そこまでばっさり斬っておきながら、「なんの取り柄もないわたし」みたいなことを言い出すという、あらすじとしてはそういう文書。

へんな本だ。

ほとんど神経症の一歩手前じゃないかと思った。鬱の傾向のある人のブログなんかがまさにこういう流れになったりしそう。それと、彼女には男性恐怖症的な傾向も感じる。「同性愛的」と書いてる本もあったけど。

紫式部日記の内面的分析は、岩波の「古典を読む」シリーズの、先日亡くなった大野晋による『源氏物語』が詳しい。このシリーズ、図書館で『枕草子』を開いたら(誰が書いてたかは忘れちゃいました)、「清少納言は中宮定子のお姉さん的な感じもあったのよね」みたいなことが書いてあって、「そういうゆるい話のシリーズなのかな」と思いながら『源氏物語』のほうを開けたら、いきなり表とともに「名詞を直接受けないハの割合は四割を超えている」みたいな文が目に飛び込んできて、そのギャップにびっくりした記憶がある。さすが御大だと思った。紫式部日記を読み終わったらもう一回読んでみようかな。

文法的な興味で読み始めた古典だけど、中身としては僕はやはり歴史的なことよりも文学的なほうに目が行く。こういう、個人の屈折した本音だとかがにじみ出てくるような「怪文書」なんかにも心惹かれるものがある。枕草子でも、僕が好きなのは清少納言が人に出し抜かれたり、コンプレックスを吐露したりするような段なんだよね。こういう面白さは、近代以降の読者はみんなそれぞれ独自に発見してたと思う。樋口一葉とか。

それにしても驚くのは、千年前にこういう近代的な意味の「個人」という概念が通用するような文書が書かれていたということ。だってフーコー先生とかの言いっぷりだと、「個人」という概念はついこの間できたモノなんだという感じじゃないですか。「古代人には内面はなかった」と。だけどそれも普遍的というよりはヨーロッパ的な説に過ぎないのかもしれない。

しかし近代までは、たしかにこの紫式部日記にせよ源氏物語にせよ、こんなどろどろした本だというのに、昔の人は「もののあはれ」とかさっぱりした名前を付けて「みんなの文化的な共有財産」にしちゃってたんだから、やっぱりそういうものなのかもしれない。精神分析的な読み方に凝ってはよくないとは思うけど、そこまでしなくても現代人だったら、ある人物のああいう文章を読めば「この人は滅入ってる」ということぐらい容易に察知できるだろう。だいたい抑圧されたら滅入るなんてのは、いつの時代の人間だって同じはずだと思う。だけどそれを言い表すボキャブラリがなかっただけかもしれない。

うーん、やっぱりここで書くのは難しいな。

今日のライフハック

エレベーターとエスカレーターは、人と話をしているときなど、どっちがどっちだかわからなくなったりすることがよくある(よね?)。そんなとき、唱えるだけでその区別をまざまざと思い出すことができる、秘密の言葉があるのです。今日はそれをご紹介しましょう。それは、

「エレベーターアクション」

ですっ! ひとたびこの言葉を口にすると、しゃがんで銃弾をかわしたりする主人公や敵キャラとともに、そのステージがチープなドット絵で頭の中によみがえります。そして、そうそう、これがエレベーターだった!とはっきりするというわけ。ほんとに効果あるよ。まじでおすすめするから。ぜったい間違えなくなる。

2008-09-10

もうあまりにもどうでもいいことですが、茂木健一郎って桃井はるこに似てないかな(逆か)。

デザイン

デザイナーに会社のパンフレットに掲載する地図を作ってもらうことになり、その原稿を作る。自分なりにデフォルメを利かせて、会社の人に意見を聞いてみると、肯定的な評価があんまりない。

それで最初は落ち込んだのだけど、もらったコメントをよく振り返ってみると、そのほとんどすべてが「○○が載ってない」という文言に集約されることに気づいた。そういうことか。

会社の人たちはデザイナーでもなんでもないので、デフォルメの巧拙とかには目がいかない。だから地図を見せられて言えることは、結局「○○が載ってない」という指摘くらいなのだ。自分も、他人が作った地図の原稿を見せられたら、言うに事欠いて同じようなコメントをしていたかもしれない。

ということで、この手の意見は遠慮なくすべて無視することに。だって作ってるときは「どこまでシンプルにできるか」を考えて作ってたんだから、みんなの意見を取り入れたらまた雑然とした不格好なものに戻ってしまう。こういうときには民主的でないほうがいいのよ。道順を図示するためのものなんだから、「歩道橋がない」とか「○○ビルがない」とかいう指摘に応えていると、どんどん悪くなっていく。あぶないあぶない。

これに気づいたとき、デザインというものの本質をかすかに垣間見たような気がした。やっぱりプロというものは、「削る」プロなんだろうなあ、と。

紫式部日記とか

あんまり書いてないけど、読んでます。いま半分くらいまで読んだ。たしかに紫式部の文章は、枕草子と比べると難しい。というか、長い(一文が)。しかしこちとら基礎体力をつけて挑んでいるからね。がんばるよ。

それまでは、基本的に読んだことある古文はほとんど清少納言の文章ばっかりだったので、こうして紫式部日記を読み始めるとやっぱり古文でも人によって雰囲気の違いが出るもんだなあと思う。それを感じられるようになっただけでも進歩してるということだと思いたい。

あと平行して、枕草子のほうで読んでてよくわからなかった箇所を「新日本古典文学大系」の注釈で解決していくという作業を始めた。とくに最初のほうは、ほんとに知識ゼロで始めてるから読めてなかったところが多い。「なるほどそういうことか」と膝を打つようなことも少なくないけど、表現についての注釈が豊富な「新大系」でそもそも読み始めていたら、読み流してしまい大した感慨もわかなかっただろうな、と思う。悪戦苦闘したからこそ、注釈を読んで大いに溜飲が下がるというわけで。

ついでに「赤染衛門集」まで読み出したので、若干さばききれなくなっているかも。枕草子も紫式部日記もこれも、内容についていろいろ書きたいことはあるものの、その時間がない。

あと本当は『玉勝間』も読みたくて買ってあるんだけど、積んであるままだ(まあこれは厳密に古文というのとは違う)。長いキューだ……。それにまだ五十四帖の大物だって残ってる。

2008-09-03

tenki.jp がなんかポータルっぽくなってる。勘弁してよ。

予測。国産テキストエディタで、1 タブ 1 プロセスで動いて安定性を謳うのが出る!(確信なし。)

乗り換え先はxyzzy

これがあの見米さんの文体なの? なんだかずいぶん丸くなっているような気が。

5.0 のベータテストの時、僕らは見米さんにまるで怨恨でもあるかのごとき言いぶりで不具合報告や要望を叩きつけてきたけど、6.0 の初期の「身内レビュー」の段階では、その見米さんが山口さんに同じようなことを片っ端から報告していたというのはなんだかおもしろい。結局、見米氏もあの時は「中の人」として守るべきものがあったということなのだろうか。当時議論した問題のうちのいくつかでは、見米氏はただ「代弁」をしていただけなのかもしれない。だとしたらちょっと申し訳ないことしたとも思う。

じつをいうと、当時は「中の人」である見米氏を説得できれば、氏のセンスで WZ になんらかの改善が反映されるものとも思ってた(設定ダイアログとか)。でもこの見米さんの書き方から察するに、やっぱりそういう裁量は山口氏次第だったのね。僕が見米さんに由来しているとばかり思い込んでいた VC の「頑なさ」のいくらかは、あるいは山口さんに由来していたものだったのかもしれない。

(もっとも、個人的には、当時の見米さんの対応でいまだに疑問に感じている部分はありますよ。)

山口さんが何を考えているのかは、僕はもうわからないです。WZ MAIL とか作り出した頃は「手を広げると大変だ」とは思いつつも、作ろうとしてるのがどうあるべきものなのかという、そのビジョンは理解できたんだけど。6.0 の最初のプレビュー版を見たとき、じつは僕はその様相にうっすらと狂気めいたものすら感じた。WZ は、テッド・ネルソンのハイパーテキスト構想や、水野晴郎のシベリア超特急シリーズのような、厚い敬意を払われつつも生暖かい目で見守られるような、氏の孤高のライフワークになってしまうんじゃないかと思った(で、リリースのたびにニュースになったりスラッシュドットに出たりだけはする)。これは杞憂であるといいんだけど。

あるいは、もう Windows の普通の UI をとか言わないで、そういうのをぜんぶ山口氏の思うままにさせておくと、最終的にできあがったときに(Emacs みたいな)超絶アプリケーションになっているのかもしれない。

なんだかんだで 4.0 も 5.0 もそれなりの形にはなったのだから、6.0 もそれと同じくらいのものにはなるのかもしれない。そうなったら、2ch の人たちに感謝すべきですね。それともべつにベータテストじゃないから感謝しない?

自分を説得することの難しさ

枕草子のある章段のある文が修辞疑問文、つまり反語表現かどうかを、ここ数日ずっと考え続けている。もう考えすぎて頭がおかしくなりそうだ。「新日本古典文学大系」の注釈では、そこは反語ということになっている。しかし……。

反語かどうかで文意がひっくり返るわけで、どうも放っておくのが気持ち悪い。

うう、頭痛い。めまいもしてきた。

ストリートファイターIV

行くゲームセンターになかなか倒せないケン使いの人がいる。七、八回に一回くらいは勝つこともあるのだけど、ちょっと気を抜くとボコボコにされる。向こうの人はなんとも思ってないだろうけど、ひそかにライバル視して挑んでいる。ていうか会社帰りだと対戦台のメンツがほぼ固定してるとかいう罠。

ケンの倒し方と、古文の反語表現、それが最近の脳内二大思考潮流です。

2008-08-28

冷やしてある桃を食べる暇がない。

五言 奉西海道節度使之作    五言 西海道節度使を奉ずるの作 藤原宇合(ふじわらのうまかい)
往歳東山役   往歳 東山の役
今年西海行   今年 西海の行
行人一生裏   行人 一生の裏《うち》
幾度倦浜辺   幾度 浜辺に倦《う》む

(中略)宇合がこのような詩をうたった背景には、中国の漢詩の伝統として、「不遇」すなわち自分が正当に遇せられていないことをテーマとする習慣があげられます。

さきに志を述べるのが詩であるといいました。自分がいかに不遇であるかとそれを訴えることは、自分の志を訴えることです。中国では、白楽天も江州や越州に配流されました。中央で自分の才能を認めてくれなくて地方に流されてしまう、だから、おれは不遇であると詩で訴える。

ところが日本人は、不遇を訴えないのです。黙ってビールを飲んでいる。中国では「おれは不遇である」という。「不遇である」ということはすなわち、「自分は優れた才能を持っている、それを評価してくれ!」と訴えていることです。まさにこれは志を訴えているのです。時には朝廷に直言や諫言まですることもあります。

ですから中国で詩人であるということは、ばあいによっては死刑に処せられることを覚悟しなければならないほどのことなのです。実際、中国ではおびただしい数の詩人が死刑になっています。日本人のように、なにかいっているだけでインテリだなどというのと違うのです。中国人は、命を懸けて発言しています。死を覚悟したうえで志を述べるという伝統があってこそ、不遇を訴える詩が成立します。

宇合の詩はこうした中国の流れのなかにあるのですが、やや情のほうに寄っています。「自分はこんな辺兵ばかりで、ほんとうに嫌だ」という気持ちを訴えています。しかし、これは日本人独特の情の訴えかたではなくて、中国のパターンにしたがって訴えているということです。

おもしろいことに、宇合が西海道の節度使に任命されたその同じときに、高橋虫麻呂が宇合に贈った和歌が『万葉集』におさめられています。「不遇」の漢詩の伝統を知ったうえでつくったと考えられる和歌です。

千万《ちよろず》の 戦《いくさ》なりとも 言挙《ことあ》げせず 取りて来ぬべき 男《おのこ》とそ思ふ (巻六・九七二)

相手が千万の敵であろうとも、あなたは愚痴なんかこぼさないで殺してしまう、そういう男性だと思いますよと、虫麻呂は宇合を勇気づけているのです。ここには不遇を悲しむテーマはまったくありません。これは和歌的に発想しているのです。

中西進『日本文学と漢詩』、2004年、岩波書店、pp. 21-22

WZ6

2ちゃんねるではWZ6のプレビュー版はα版ということになっているらしいのがおもしろい。どこにもそんなこと書いてないのにね。ダウンロードすると書いてあるのかな。品質から推測してそういうことになっているのだとしたらちょっと悲しいものがある。

思いつき

ウェブでの露出を辞めるのを出家と呼ぶのはどうか。

だんだん発想がオリエンタルになってきてる……。

Watchmen

映画になるということで、原作を随分前に読んだのだった。なんとなく古文の話にまぎれて書けなかったけど。日本語訳があればそれでいいつもりだったのに、日本語版は絶版で古本には法外な値段がついていたので、しかたなく英語で。

さらっとしか読んでないんだけど、なんか変な話だ。こういう話にしておいて、全身タイツのヒーローは出すというのが不思議で。そういう、コミックの枠組みに対する挑戦なのかな。筋はネタバレしないほうがいい感じなので各自で見てくださいな。正直ちゃんと読めてないような気がするけど、Watchmen は終わり方があっけなくて、僕は「V for Vendetta」のほうが好きだな。でもこれ向こうではほとんど伝説的作品みたいな扱いのようなのよね。

アラン・ムーアという人の作品は、いつも望まれて映画化されるがいつも挫折する。映画の制作そのものが頓挫するか、できあがった作品が原作とはかけ離れたものになるか。そういうことで、彼は自分の作品の映画化ものに、自分の名前を入れないでくれと言っているそうだ。V for Vendetta は映画も見に行ったんだけど、最後はあんまりなおめでたぶりで終わる作品になってしまっていた。あれは怒るよ。今回はどうなのかな。もっとも V 同様、動くロールシャッハ(キャラクター名)がかっこいいところを見に行くというだけでも僕はいいんだ。

自信を持って断言できるが、映画は(まあコミックもだけど)日本では受けない。

人に話すと「おもしろそうだね」と(付き合いで)言ってくれるが、実際には誰も自分ではやってみようとしないようなめんどくさい趣味を多く持っているわたくしですが、海外のコミックを読むのもそのひとつかもしれない。趣味というほどはたくさん読んでませんけど。だけどだね、面白さというものは、ぼんやり眺めるものではなくて、探し出すものなんだよ、君。宝石とおんなじだ。