もうあまりにもどうでもいいことですが、茂木健一郎って桃井はるこに似てないかな(逆か)。
デザイン
デザイナーに会社のパンフレットに掲載する地図を作ってもらうことになり、その原稿を作る。自分なりにデフォルメを利かせて、会社の人に意見を聞いてみると、肯定的な評価があんまりない。
それで最初は落ち込んだのだけど、もらったコメントをよく振り返ってみると、そのほとんどすべてが「○○が載ってない」という文言に集約されることに気づいた。そういうことか。
会社の人たちはデザイナーでもなんでもないので、デフォルメの巧拙とかには目がいかない。だから地図を見せられて言えることは、結局「○○が載ってない」という指摘くらいなのだ。自分も、他人が作った地図の原稿を見せられたら、言うに事欠いて同じようなコメントをしていたかもしれない。
ということで、この手の意見は遠慮なくすべて無視することに。だって作ってるときは「どこまでシンプルにできるか」を考えて作ってたんだから、みんなの意見を取り入れたらまた雑然とした不格好なものに戻ってしまう。こういうときには民主的でないほうがいいのよ。道順を図示するためのものなんだから、「歩道橋がない」とか「○○ビルがない」とかいう指摘に応えていると、どんどん悪くなっていく。あぶないあぶない。
これに気づいたとき、デザインというものの本質をかすかに垣間見たような気がした。やっぱりプロというものは、「削る」プロなんだろうなあ、と。
紫式部日記とか
あんまり書いてないけど、読んでます。いま半分くらいまで読んだ。たしかに紫式部の文章は、枕草子と比べると難しい。というか、長い(一文が)。しかしこちとら基礎体力をつけて挑んでいるからね。がんばるよ。
それまでは、基本的に読んだことある古文はほとんど清少納言の文章ばっかりだったので、こうして紫式部日記を読み始めるとやっぱり古文でも人によって雰囲気の違いが出るもんだなあと思う。それを感じられるようになっただけでも進歩してるということだと思いたい。
あと平行して、枕草子のほうで読んでてよくわからなかった箇所を「新日本古典文学大系」の注釈で解決していくという作業を始めた。とくに最初のほうは、ほんとに知識ゼロで始めてるから読めてなかったところが多い。「なるほどそういうことか」と膝を打つようなことも少なくないけど、表現についての注釈が豊富な「新大系」でそもそも読み始めていたら、読み流してしまい大した感慨もわかなかっただろうな、と思う。悪戦苦闘したからこそ、注釈を読んで大いに溜飲が下がるというわけで。
ついでに「赤染衛門集」まで読み出したので、若干さばききれなくなっているかも。枕草子も紫式部日記もこれも、内容についていろいろ書きたいことはあるものの、その時間がない。
あと本当は『玉勝間』も読みたくて買ってあるんだけど、積んであるままだ(まあこれは厳密に古文というのとは違う)。長いキューだ……。それにまだ五十四帖の大物だって残ってる。