さて、新日本古典文学大系の源氏物語を買ってしまった。もう後には引けない。
そういえば、前回ちらっと言及した大野晋の『源氏物語』、あんなことを書いていたその月にちょうど文庫になっていた。岩波現代文庫。
(作用|形状)性(名詞句|用言)
古代語では、(1) のように、用言の連体形を、そのまま名詞句として用いることができました。これを準体句といいます。準体句は、主名詞が顕在していない連体句とみることができます。
(1) a 仕うまつる人の中に心たしかなる[人]を選びて(竹取) b 昔、月日の行く[コト]をさへ嘆く男(伊勢 91) (1a) のように、顕在していない主名詞にヒトやモノが想定される準体句を形状性名詞句、(1b) のように、顕在していない主名詞にコトやノが想定される準体句を作用性名詞句といいます(石垣謙二 1942)。
日本語の用言は、形状性用言と作用性用言との2つに分けられます。形状性用言とは、終止形がイ段音の語(形容詞・形容動詞・ラ変動詞、および「べし・たり・けり・き」などの助動詞)と動詞「見ゆ・聞ゆ・思ゆ・侍ふ・おはす・という・になる」、助動詞「ず・む・らむ・けむ」です。それ以外の用言は、作用性用言です。作用性名詞句(〜コトの意の準体句)の準体部に現れる用言には制限がありませんが、形状性名詞句(〜モノの意の準体句)の準体部に現れる用言は、一般に、形状性用言に限られます(石垣謙二 1942)。実際、(1a) は形状性名詞句ですが、準体部は形状性用言(「たしかなり」)になっています。例外は 1. のような句型で、作用性用言で形状性名詞句(〜モノの意の準体句)を構成する場合は、必ず主語になり、かつ述語は形状性用言になります(石垣謙二 1942)。
1. 猛き武士の心をも慰むる△は歌なり。(古今・仮名序)
したがって、たとえば 2. は、「渡り給ふ」が作用性用言なので、同格構文(「大臣の渡り給ふ[大臣]」)ではありえず、作用性名詞句(「大臣の渡り給ふ[コト]」を待ちけるほどに)ということになります。
2. 頼信、大臣の渡り給ふ△を待ちけるほどに(今昔 27-12)
作用性名詞句が主語になるとき、述語は必ず形状性用言になります(これを「作用性用言反撥の法則」(石垣謙二 1942)といいます)。すなわち、日本語には、2〜4. の句型はありますが、1. の句型は存在しません。
1. *子供の群がるが騒ぐ。 <作用性名詞句−作用性用言> 2. 子供の群がるが騒がし。 <作用性名詞句−形状性用言> 3. 子供の群がれるが騒ぐ。 <形状性名詞句−作用性用言> 4. 子供の群がれるが騒がし。 <形状性名詞句−形状性用言> (小田勝『古代日本語文法』おうふう、2007 年、pp. 150-156)
注意して読まないと誤解する、ひじょうにややこしい箇所。
現代語で例の「リンゴが売ってる」問題を考えるのにも関係してくるかもしれないね。
形状性用言の定義は一見恣意的だけど、英語でいえば補語をとる自動詞(SVC の文型になるやつ、be, become, look, sound, etc.)というのにあたっている。
ノリナガ、こないだパーマかけたのよね
『玉勝間』二の巻。
宣長、縣居ノ大人にあひ奉りしは、此里に一夜やどり給へりしをり、一度のみなりき、
宣長は、道を尊み古へを思ひてひたぶるに道の明らかならんことを思ひ、……
宣長の一人称は「宣長」。そんだけ。
更級日記
昔より、よしなき物語、歌のことをのみ心にしめで、夜昼思ひて、おこなひをせましかば、いとかかる夢の世をば見ずもやあらまし。
(『更級日記』岩波文庫、p. 68)
訳 昔から、くだらない物語や歌に夢中になってばかりいないで、昼夜一心にやるべきことをやっていれば、こんな目には遭わなかったのではないだろうか。
最近忙殺され疲れてるせいもあるのか、いろんなことで自信をなくしたり悲観的な考えに走ってしまったりしがち。まさか平安女流文学の身の上を嘆く調子が乗り移ったというわけでもないけどさ。
それで現実逃避に古文を読む。健全でないが、悪いのは現実逃避でなくて、現実のほうで事態を改善する行動を起こす勢いがないことだね。
ATOK
どんどんあてにならないと感じるようになっている。「披露が激しく」とか。「酒という肴は」という変換を出してきたことがあるけど(「鮭という魚は」と書こうとしてた)、これなんて空気を読んだつもりで得意げに間違っているような変換だ。