2008-07-25

「とぞほんに。」まで読んだ

〔一〇七〕 ゆくすゑはるかなるもの 半臂の緒ひねりはじむる。陸奥國へ行く人の、逢坂越ゆる程。産れたるちごの大人になる程。大般若の讀經、ひとりしてはじめたる。

難しいところがあったり若干忙しかったりで思ったより時間がかかったけど、ようやく『枕草子』を読み終えた。去年の11月頃から読み始めたので、およそ9か月かかったことになる。

ほとんどつねに(古語辞典とともに)持ち歩いていたので、小口のところなどすっかり薄黒くなっている。なにせ予備知識ほぼゼロからはじめたものだから、本文に出てくるほとんどすべての単語について辞書を引いたと言ってもよく、書き込みのないページもほとんどない。不明点に「?」印を付けてそのままのところも多いので、それらについては追々気が向いた時に調べていこうかと思ってます。いまやこの文庫本は自分なりの注釈書として捨てられないものになってしまった。

そして読み終わったその日に、『紫式部日記』を買ってきた。これは薄いからすぐ読み終わるよ、きっと。

玉あられ

『玉あられ』は本居宣長が、古文の初学者向けに書いた心得書のような冊子です。読解というよりは、作歌や擬古文をものす人を対象にしてますが、近世以降の人間が間違えやすいところを(ちくちくと)的確に指摘しているので、現代人でも読むと役に立つ。適当に気になったところを引用。

句点がなくて読点だけで、ものすごく読みにくいけど、もとがそうなのよ。文中の“「”は原文では庵点(歌記号)というものになってます。まあ使い方がほぼ鉤括弧なのでこれで。「某なる者」とか「いと」などの節には、なるほどねえ、と唸らされるものがある。

歌の部

やすめ詞のもじ、おきざまあしきは、いと聞ぐるしき物也、ちかき世の歌に、「道ある世、などおほくよむ、これら「道あれといふときは、もじ優(イウ)なるを、下を「あといふところにおきては、こちなく聞ゆるなり、餘もこれになずらへてわきまふべし、すべてかやうのこと、古の歌をよく考へて使ふべき也、

と受る上の格

「花咲き といひて、「咲ぬる とはいはず、「郭公聞 といひて、「聞つる とはいはず、

もじたらぬ語

又文には、かならずもじをいくつも重ねていふべきことも多きを、その重なるをいとひて、略(ハブ)くこと、まだしき人の文におほし、そは中々にひがごとなり、古き物語などを見べし、必おくべき所には、いくつ重なりてもいとはす、重ねておけるをや、

詞に三つのいひざまある事

又文に、たとへば、古人のかける書、いへる説などの事をいふに、今その書その説をとらへて、其事につきていはむには、「云々(シカシカ)かける「云々(シカシカ)いへるといふべし、又そのかきたりし昔いひたりし昔の事をいふには、「云々(シカシカ)かき、「云々(シカシカ)いひといふべし、たとへば古今集序をとらへて、其事をいはんには、「此序は延喜の御代に貫之のかける也といふべし、又そのむかしの事をいはむには、「延喜の御代に貫之の此序かき時、或は「かきたり時などいふべし、然るを近世人は、すべてこれらのけぢめなく、「古今集の序は貫之のかき文なりなどやうにいふはたがへり、

なほ

なほは、俗言に、まだ或はそれでも或はやッはり、などいふにあたれり、然るを「いよ/\といふ意につかふは、後のこと也、

物から

此詞は、古今集夏「郭公ながなく里のあまたあればなほうとまれぬ思ふものから、此下句を、俗言にいへば、「思ひはすれども、それでもうとまれる、又、「思ひながらも、やッはりうと/\しく思はれる、などいふ意也、(中略)然るを今世の人は、いかに心得たるにか、「思ふからといふべき所を、「思ふものからといひ、「あらぬ故にといふべき所を、「あらぬ物からといふたぐひいとおほきは、たゞからといふと、同じ意と思ひ誤れるなめり、たゞから物からとは、おほかたうらうへのたがひあるをや、そも/\此詞は、歌にも物語の詞などにも、常におほく見えて、其意まぎるべくもあらぬ詞なるに、今世には、歌をも文をもよくよみかくと思ひおごれる人も、多くひがことあるは、いと/\かたはらいたきわざなりかし、

やらぬ

たとへば、「雪の消やらぬといふは、春になりて猶寒きに、雪もはやくきえよかしと思へ共、つれなくきえぬ意、「花の咲やらぬといふは、早くさけかしとまてども、さくことのおそき意、「道を行やらぬといふは、はやくゆかむといそげども、思ふがごとえゆかぬやうの意にて、やらぬは皆かくのごとし、然るを近世人は、これらの類をもたゞ雪のきえぬこと、花のさかぬこと、道をゆかぬこととのみ心得たるにや、或は花はまだちらであるを、「ちりやらぬといひ、「月のまだいらぬを、「入やらでなどよむ類多きは、ひがごと也、さては花を早くちれかしと願ひ、月をとく入れかしと願ふ意になるをや、

文の部
某なる者

すべて人の名をいひ出るには、或は、「其(ソノ)國に其(ナニ)といふ人あり云々、或は「むかし某といひし者の云々、などあるべきを、近きころの人の文には、「某なる人有云々、「某なる者の云々 などかく、此なるといふ詞、いみしき誤也、是も漢文の近年の訓點に、「有ナルと附たるを、見ならひて、書はじめたるなめり、漢文もふるき訓點には、トイフを讀付(ヨミツケ)て、「有トイフとよめる、これぞ正しきよみざまなるを、近年の人、なまさかしらに、しひて言ずくなによまむとて、ナルモノとは附たるなれど、然いひては聞えぬこと也、そも漢文はともかくもあれ、御國の文にさへ、さるひがことをまじふべきことかは、なるは、もとにあるのつゞまりたる詞なる故に、古の文には、あるは「中将なる人、「式部丞なる者、あるは「京なる人、「つくしなる者など、官又地名などにこそ、なるとはいひつれ、そは「中将の官にてある人、又、「京に居る人、という意なればぞかし、されば人の名に、「在原業平なる人「紀貫之なる者、などいへる例はさらになし、さいひては、「業平にある人、「貫之にある者、といふ意なるを、さてはなるといふこと、何のよしぞや、いと/\をかし、さしもさかしだつ近年の人、こればかりの事にだに心のつかで、いとみだりなるこそ、かへす/゛\かたはらいたけれ、

あづま むさし

今の世の人、江戸にゆくことを、或は「あづまにまかりける、或は「むさしの國にくだり給ふ、などかくはわろし、こは江戸といふ名を書を、俗なるやうに思ひてなめれど、地名なれば、なでふことかはあらむ、まさしく江戸をさしていふことには、たゞ江戸とかくこそよろしけれ、

とみに

とみにといふは、俗言に「きふに「早速にといふ意、とみの事は、「きふな事といふこと也、然れ共つかひやうのある詞にて、たとへば俗語に「きふには來(コ)ぬ「早速には出來ぬといふことを、「とみにも來(コ)ぬ、「とみにもいでこず、などはいへども、「早速に來(キ)た「早速に出來たといふことを、とみに來(キ)つ、とみに出來(キ)つ、などつかひたることなし、此わきまへ有べき也、今の人は此わきまへなく、みだりにつかふめり、

いと

いと寒し、「いとあつし、などいふいとは、つかひやうのある詞也、たとへば「いと戀し「いとかなしなどいふはよろし、然るを同じ詞ながらそれを、「いといとかなし、といひてはわろき也、「戀「かなしといふときは、いたく いみしく などいふ也、

時代のふりのたがひ

今の人の文は、時代のわきまへなくして、中昔のふりなる文に、奈良以前の詞も、をり/\まじり、又ふるきふりなる文に、むげに近き世の詞もまじりなどして、かの鳴聲ぬえに似たりとかいひて、むかし有けむけだもののこゝちするぞ多かる、

出典「本居宣長全集」第五巻、筑摩書房、1970年

「地名なんだから江戸でよい」とか、おもしろいよね。

繰り返しの「くの字記号」は(横書きなら「への字記号」か?)Unicode にはあるんだけど、フォントが横書きに対応してないみたいなので、好きじゃないものの仕方なく「/\」「「/゛\」を使った。

どうでもいいけど宣長は18世紀の人間なので、しゃべってた言葉はずっと現代の日本語に近いはず。なのに著作はどれもこんな調子なんだから、会ったらきっとめんどくさそうな人物だったにちがいない。

2008-07-18

↓↓↓ご覧の通り、枕草子の読了が近い。今週中とはいかないかもしれないけど、遅くとも来週中には読み終わるはず。

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だから(?)今日はこれにて。

2008-07-10

失礼。ちょっと愚痴でした。

その件はけっきょくあまりの屑ぶりに向こうから気づいたのか、流れた。

千年の時を越えてよみがえるモテ自慢

……經房(つねふさ)の中将おはして、「頭の辨はいみじうほめ給ふとは知りたりや。一日(ひとひ)の文(ふみ)に、ありしことなど語り給ふ。おもふ人の人にほめらるるは、いみじううれしき」など、まめまめしうのたまふもをかし。「うれしきこと二つにて、かのほめ給ふなるに、また、おもふ人のうちに侍りけるをなむ」……

(意訳) ……經房の中将さまが来られて、「頭の弁(藤原行成)殿がずいぶんとあなたをお褒めになっているのは聞きましたか。このあいだ手紙が来て、何があったのか教えてもらいましたよ。好きな人が人に褒められるのは、とてもうれしいことだ」などと、まじめな顔をして言うものだからおかしい。「嬉しいことがふたつになった、褒められたことと、それから、あなたが好きな人のうちに入れてくれたこと」……

(枕草子・136 頭の弁の、職にまゐり給ひて)

い い か げ ん に し ろ 。

こいつ、ほんとは千年前なんかじゃなくて、70年代少女マンガ新感覚派のひとりとかじゃないのか。

そういえば以前、某女性作家がブログで「今日は誰々(某男性批評家)がデートに誘ってきたので行ってやった。(中略)まあ合格点か、よくがんばったね」みたいなことを書いているのを読み、そういうの書くなよなー、と思ったことがあった。男の方はがんばってるんだから、おおっぴらに暴露されるのはかわいそうだよ、と。まあ自分が男だからそう思うんだろうけど、枕草子にもそういう話がぽんぽん出てくる。ブログに書かれて冷やかされたなんてのは、まだかわいいうちだ。平生昌や藤原行成なんて、そんな話がもう千年もさらされ続けている。この場合、ISP に訴えるというわけにもいかないし。かわいそすぎる。

Subversion Book

オンラインで読める Subversion 入門の良書、Subversion Book には日本語版もあったのですが、もうかなりの期間、日本語版は読めなくなっています。どうなってるの? 日本語版だけ違うホストに置いてあるし、Subversion Book のリポジトリには格納されていないのも妙だ。なにか事情があるのかもしれないけど、いいかげんこれはけっこうな損失ではないかと思う。

Firefox 3 をリロードさせる

Firefox 3、速くて使いやすくていいです。だけど日本語での単語選択の切り方がへんじゃない?

ところで、Firefox に F5 のキーコードを送信して別のアプリからリロードさせようとしたのですが、ただアプリケーションのウィンドウに WM_KEYDOWN/WM_KEYUP を送っただけでは効果がない(2の頃もそうだったような気がする)。子ウィンドウをたどって、うんと奥のやつに送信しなければいけないようです。

/**
Sample Code -- Make Firefox browser (for Windows) reload.
*/


#include <windows.h>


void ReloadFirefox(void);
BOOL CALLBACK EnumChildProc(HWND hwnd, LPARAM lParam);


void ReloadFirefox(void)
{
    /**
    Find the Firefox 3 browser and send it a F5 key stroke to reload its 
    stuff.
    
    NOTE: You can't make it by just sending WM_KEYDOWN/WM_KEYUP messages 
    to the top level window somehow. You need to search the 
    MozillaContentWindowClass window and send these messages to its child 
    window to get it done.
    
    */
    
    HWND hwndFxFrame;
    HWND hwndFxChild;
    
    hwndFxFrame = FindWindow("MozillaUIWindowClass", NULL);
    if (!hwndFxFrame) return;
    if (!EnumChildWindows(hwndFxFrame, EnumChildProc, (LPARAM)&hwndFxChild))
        return;
    PostMessage(hwndFxChild, WM_KEYDOWN, VK_F5, 0x00000001);
    PostMessage(hwndFxChild, WM_KEYUP, VK_F5, 0xc0000001);
}


BOOL CALLBACK EnumChildProc(HWND hwnd, LPARAM lParam)
{
    TCHAR classname[256];
    HWND *phwndchild = (HWND*)lParam;
    
    if (!GetClassName(hwnd, classname, 256)) return TRUE;
    if (strncmp(classname, "MozillaContentWindowClass", 256)) return TRUE;
    *phwndchild = GetWindow(hwnd, GW_CHILD);
    return !!*phwndchild;
}


int main(void)
{
    ReloadFirefox();
    return 0;
}

ATOK 2008

かな入力で使っていると、日本語入力が ON のままサスペンドして復帰した後、入力モードが全角英数になってしまう。

ジャストシステムのサイトにはオンラインで不具合を報告する仕組みがない。なんと電話をしなければならないようだ。電話すれば直るのか? こまめにパッチを配布している様子はなさそうだし。どうだろう。

GVim は Python でマクロが書ける

らしいです。清水川さんに教えてもらいました。ためしに :python print ‘Hey’ とやってみたところ、はじめは、python25.dll がない、と怒られた。Python いまだに 2.4 を使ってました。後日 2.5 をインストールして、‘Hey’ と出ることを確認。よし。

これだけで乗り換えたりはしませんが、覚えておこう。

ちなみに gvim が乗り換え候補に入ってるのはクロスプラットフォームだからで、もし Windows 専用のエディタだったらこんな変態的なのにはもちろん触ってみたりしないのです。

第二回「こんなところに係り結び」

「何々のみ知る」というのも、係り結びですね。

ほんとかよ、と思っても疑ってはいけません。

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2008-07-08

ど う し て テ レ ビ 屋 の 考 え る こ と は こ う も 屑 な の か 。

死後の裁きと地獄の存在を信じたがる人間の気持ちが今ならわかる。

2008-07-04

最近翻訳やってないなあ。一年以上前にやった、ほぼできかけのやつがあるんですが(こう書くともったいぶってるような言い方だ……)、作者に出すメールの英語を書くのが面倒でやってない。

Subversion の Windows 用バイナリが、CollabNet のサイトにユーザー登録しないとダウンロードできなくなってる! と、思ったら、ソースのダウンロードのツリーにさりげなく Windows 用バイナリの ZIP があった。

にを

古文を読んでいると、現代の感覚では捉えがたい助詞の使われかたに出くわすことは多い。「に-を」と続く助詞もそのひとつ。現代語じゃ使ってない、はず。

  • いまは、限りありて絶えんと思はん時にを、さることはいへ。(枕84・里にまかでたるに)
  • 御簾の前にて、人にを語り侍らん。(枕87・職の御曹司におはします頃、西の廂にて)
  • ……さらば、それにをありしことをばいはん、とてあるに、……(枕161・故殿の御服のころ)
  • いかでかかるついでに、この君にをたてまつらむ。(源氏12・須磨)
  • まづまことの親とおはする大臣にを知らせたてまつりたまへ。(源氏22・玉鬘)
  • また、さやうにを人知れず思ひ置きたまへ。(源氏52・蜻蛉)

それにしても grep できるテキストファイルがあるのは便利。読んでないのに源氏から用例を拾える。

gvim

清水川さんが乗り換えてしまったという gvim。いつの間にか、iminsert なんて変数ができてて、Esc でコマンドモードに戻ると IME がオフになったりするようになっていた。昔からそうでした? だとしたらその時は気づかなかったのか。

そういうわけで、じゃあいよいよ乗り換えてみるかと少しいじってみたんですが、やっぱり日本語に弱いのは正直きつい。これはプログラマのためのエディタだ。そもそも「行を折り返す」ということ自体が例外的なケースという目線なので、その時点で自然言語の文章(ようするにこういう普通の文章)をせこせこ書くのに向いてない。プログラマだから普通の文章も gvim で書くというのはかっこいいけど、俺プログラマじゃないすから。これを使おうというのなら、テキストエディタで日本語を書くというこれまでやってきた作業において抜本的な習慣の改変を迫られることになる……。ていうか、それって VZ と整形マクロの世界に逆戻りだよなあ。

「折り返しは必要か」とか、「禁則は必要か」とか、ものすごく根本的なところを己に問い直さないと gvim 常用には踏み込めない。だけど今、21世紀じゃん……。

UAX #14, #29 を実装していてマクロ言語が Python のエディタ、どっかにないかなあ。誰か作って!!

(整形処理をせずに)折り返し表示でずらずら普通の文を書いている時の数少ない欠点は、バージョン管理した時に diff がものすごく見づらいこと。でもそれは、折り返して表示してくれる diff があればいいことなんですよ、ほんとは。

でもいろいろ考えさせられた。

シールをめくると

シールをめくるとこの場で当たる!

そういう意味じゃないよ。

追記: Safari で写真が表示されてなかった。

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