ThinkPadのキーボードが届いたので交換。新しいキーボードは打鍵時の音が静かです。古いのは打つとカチャカチャ音がして(というか音がするようになってしまって)ましたからね。
さりげなくThinkPad X31の新モデルが出てる。
Masaaki Shibata blog
ThinkPadのキーボードが届いたので交換。新しいキーボードは打鍵時の音が静かです。古いのは打つとカチャカチャ音がして(というか音がするようになってしまって)ましたからね。
さりげなくThinkPad X31の新モデルが出てる。
出張お出かけしつつも「使えるGUIデザイン」についていろいろやった日々。
まず、訳の見直しや、いただいた数々の指摘の反映をちょくちょくと。
それから、翻訳についてご連絡したときに、結城浩さん(そうですあの結城浩さまです)からプロジェクト杉田玄白と原著者である Benjamin Roe さんにもコンタクトを取ってみては、とアドバイスをいただいていました。出張から戻ってからやろうと思ってたのですが、こういうのはイキオイが大事だと思い、合間を縫ってメールを書き出先から送信(おおっ、モバイラーっぽい)。すぐに山形浩生さん(そうですあの山形浩生さまです)よりうれしいお返事をいただけました(これがいっちばん緊張した(笑))。原著者さんからはまだリアクションないなあ。やばい英語力があだになってメールで失礼な発言をしたことになってないといいのですが(そんなんで日本語版なんか作るなって感じでスミマセン)。
そして、(山形さんからご助言いただいたこともあり、)翻訳もオリジナルと同じCCのAttributionライセンス(の日本語版)に。
物好きが思いつきでやってしまった翻訳もどきを出汁に、なんだか恐れ多いくらいに手を広げてしまいましたよ……。www.textfile.org にコメント書いてお知らせすることがなかったら、(結城さんのアドバイスをいただくこともなく、)プロジェクト杉田玄白にまで考えが及ぶことなんてとてもなかったでしょうね。
マクロなんかだと、公開はもはや「書いてみたから置いとくねー」という軽いノリになっていて、まあなんというか要するに慣れてきちゃってたわけですけど、それが長かったせいで、Webの片隅に居心地のいい巣を作って引きこもってるような状態になってたんだなあ、と思ったり。今回は初めてやることの連続で、ものを公開するときのドキドキ感というのを久しぶりに味わいました。初心忘るべからずですな。
ほんとに小さなことなんですけど、(ちょうどはじめてWebサイトを持った人にそうなのと同じで、)個人的にはものすごくいろいろ考えさせられる体験でした(これについてあとでもうちょっとなにか書くかも)。
Firefox の[戻る]ボタンについて書いてあったのと(cf. [2002-10-13])、www.textfile.org で「ぜひ翻訳して公開を」
などと言われているのを見てむずむずしてきてしまったため、Usable GUI Design: A Quick Guide for F/OSS Developers の日本語訳、「使える GUI デザイン」を書いてしまいました。
日曜日は一日それでおしまい。
最近は、wxWidgetsに興味が出てきてます。なんかハマるものがだんだんマニアックになってきてるなあ。
IBM部品センターに電話してThinkPadのキーボードを注文。参考、「ThinkPad:保守部品の購入について」。ちなみに8,130円でした。これに送料1,000円と消費税がかかります。
いいかげんコメントもらっているマクロの直しをしないと。
最近読んだとある本にすごいことが書いてあったので自分用メモとして引用。
一八三三年セイラムで行われた演説には、「(スコットランドの小説家、サー・ウォルター・スコットによる)ウェイヴァリー小説のようなロマンスの連作によってニューイングランド史を解き明かすことの重要性」という長い題名が付いている。この二七ページに及ぶ論文のなかで歴史作家は何を題材とするべきかという、この当時盛んに論じられた問題をとりあげているばかりでなく、実際の歴史をどのように扱うかといった方法にまで論を進めている。それを一言で言えば、歴史から役に立つ部分だけを選択することの必要性を訴えているのである。
クェーカーに対する迫害、ロジャー・ウィリアムズやハッチンソンに関する論争、絶えず開かれた宗教会議、かつて行われた教会の監視、こうした事柄は読むにあまりにも退屈であり、人の感情をそこない、疎外させてしまう。たしかに、それらは真実であり事実である。しかし、知りたいとは思わない事柄であり、知ったところで特により賢くなるわけでもない。さて、歴史ロマンスを書こうとする作家は多くの雑多な素材から選択しなければならない。彼は、わたしたちを連れ戻そうとする時代が英雄の時代であり、その時代の思索にわたしたちを立ち返らせることを覚えていなくてはならない。英雄も近侍の人にはただの人であるように、すべての真実が記録された時代は英雄的ではありえない。それゆえに、作家は役に立つ事実のみを記録すべきである。いうなれば、麦とワインと油とを穀物容器に入れ、残りのすべては腐らせ燃やしてしまうべきである。さらに言えば、作家はたしかに真実を述べるべきである。しかし真実のすべてを語ることはない。それをすれば、混乱と不調和が生じてしまう。
大西直樹『ピルグリム・ファーザーズという神話』より。引用内で引用されている論文を書いた人はマサチューセッツ出身の政治家・法律家、ルフス・チョウト(1799-1859)。いろいろ思うところはあるけれど、とりあえずこれぞアメリカンって感じ。
本の中身についてはリンク先Amazon.co.jpの解説参照。歴史を知っている人には常識なのかもしれないけど、僕は知りませんでした。
おぅ、風邪ひいたぽい。
49%の人たちの「ごめんなさい」だって。でも49%の人たちだってべつに rest of the world のために投票したわけではないのでは? これ見せられても世界の残りの人々はしらけるだけなのではないかと。まあすぐにこういう遊びを見つけてしまうのには感心してしまいますが。
Webコミック “Too Much Coffee Man” にも同じようなネタが。ジョークにしてるだけこっちのほうがわかってるかも。
熱があるせいか、blogのようなことを書いてしまいました。みなさんごめんなさい。