雑談。
これを書きながら、はっきりと自覚したのです。スマートフォンが、スマートフォントとかのたまう方々が、好きでないのだと。これはスマートフォンを礼賛する連中が、ハンドヘルドは時代遅れだとよく考えもせずに罵っていたことに起因しているのだと思う。
スマートフォンについて
かつて Palm が隆盛だった頃にその広告を見てなるほどと感心したことがあって、それはかれらがハンドヘルド(この言葉ももう死語か)をあくまで時間の節約になるデバイスとして売っているということでした。たくさんの連絡先から目的の電話番号を一瞬で探せますとか、スケジュールをすばやく確認できますとか。だから、Palm の広告の多くが、「Palm を使っているところ」じゃなくて、「使い終わったところ」や「仕事が片付いたところ」の映像を使っていました。
このことはすごく印象に残ってて、それ以来ガジェットの広告を目にしたときに、それを批評する自分なりのひとつの柱になってしまった。極論にしていうと、つまり「夢中になって使っているイメージ」を広告に使うデジタル製品はオモチャだということです。例外はゲームで、これはもちろん夢中になっているところを使ってもよろしい。
Palm の標準のアプリケーションも、とにかく時間を無駄にしないようにできていた。予定やメモを追加する時にはわざわざ「新規作成」をタップしたりする必要はない、アプリでいきなり文字を書き始めれば、それが自動的に新規の予定なりメモなりとして追加される(そして人類の月面着陸同様、もはやいまどきの若造に言っても信じてもらえないんだろうけど、Palm は手で書くよりも速くスタイラスで入力できたのじゃよ)。そういうショートカットが Palmware の真髄でした。つまり、それを使っている時間が短いことが、その出来のよいことの証になっていたわけです。これは「使える GUI デザイン」の原則にも適った発想。
この Palm のデザインが、それまでどのデジタルデバイスも果たせずにいた、「役に立つ電子手帳もある」という通念を流通させることに成功した(そして Microsoft をしてこの分野に参入しようと真面目に考えさせた)大きな要因だと思う。スマートフォンの理想というのは、歴史的にはこのハンドヘルドの成功体験を前提にしている。
まあ個人的には、使いやすくて便利な携帯電話ができたらナイスだということ自体には反対しないけど。
だけどハンドヘルドからスマートフォンへというのは、べつに進化とか発展とかではなくて、たんに携帯電話に高度なプロセッサが載っていろいろできるようになったから、「もしかしてハンドヘルドが担ってたこともできるんじゃないの!?」と思いあがるようになったというだけだと思う。そして「実際にはハンドヘルドには何ができていたのか」についてまったく省みていない。というのも、Palm は登場時点も、その後のリリースでも、当時の最速とは程遠い、遅いプロセッサを載せていたからです。ハンドヘルドの成功体験は、テクノロジーの成功体験ではなくてデザインの成功体験だったのに、スマートフォンを持ち上げてた人びとはそれに気づいていない(ように見える)。
そうこうしているうちに別の「デザインによる成功体験」の大御所がやってきて、こんどはみなさまそちらに夢中になってます。しかしこの2007年の成功体験は、ユーザーを「没入」させる体験で、Palm ハンドヘルドの思想とは対極に位置したものですよね。スクリーンを指でつついてズームさせたりスクロールさせたりするのに夢中になってる面々には悪いけど、iPhone の熱狂は人びとを白痴化させてると思う。
iPhone はバカ売れしたようだけど、スマートフォンの幻想を信じている人たちはこれもまた「スマートフォンの歴史」に追記するのだろう。そしてテクノロジーの進歩がありもしないものを進化させているという思い込みをよりいっそう強くするわけだ。Palm と Apple がそれぞれまともなデザインのデバイスを作ったという別々の出来事を己が成功譚にしたてあげる妄想力万歳ときたもんだ。
結論。
- スマートフォンという概念は幻想。
- よいデザインのものが売れてるだけ。
日本の携帯電話を「スマートフォン並み」ということがあるけど、それについても異論がある。まあスマートフォン自体が妄想なのですが。これはこれでまたそのうち書くやも。