2008-03-16

ハードディスク、安いよなあ。雑談。

好奇心が強いのは一般によいことだとされているけど、ときどきそれに振り回されているように思うこともある。そうなるともう「好奇心の奴隷」状態で、本当にやりたいことをそっちのけにして(本人の意思とは無関係に)調べたり読みあさったりしてしまう。困ったもんだ。

「固定観念」にとらわれたもう一人の奇妙な女性は、イギリスの外交官の妻レディー・マーガレット・アン・ティレル(一八七〇〜一九三九)である。彼女のライフワークは、新種の平行歴史《パラレル・ヒストリー》を書きあげることだった。紀元前二〇〇〇年から現代まで、世界のあらゆる箇所で起こった出来事を同時にたどろうというのだ。調査したり、注釈を加えたり、相互参照用の処理をしたりといった必要な作業があまりに多かったので、レディ・ティレルが、たとえば未来のジョージ六世を自分の夫の個人秘書と間違えるといった顰蹙もののへまをちょくちょくやらかしたのも、当然といえば当然だった。夫の外交の仕事でパリに滞在しているあいだ、彼女は公式行事にいっさい顔を出そうとせず、大使館の庭の木のてっぺんに腰を落ち着けて、そこで例の歴史を書きなぐっていた。

デイヴィッド・ウィークス、ジェイミー・ジェイムズ著、忠平美幸訳『変わった人たちの気になる日常』草思社、1998年

パソコンがあったらこの人はさぞやハマったことだろう。だけど木に腰掛けて書きものをするってのはちょっといいですよね。

話変わって。ゲイリー・ガイギャックスが亡くなったらしい。僕が新和の D&D 赤箱を買ったのは小学校六年生の頃だった。思えばあのルールブックの色がこのサイトの見出しの色を決定づけているといっても過言ではない。地元のスーパーにホビーショップが入ってて、そこで買ってもらったんですよ。遊ぶ人はいなかったけど。D&D 自体はスティーブ・ジャクソンのゲームブックシリーズ(東京創元社から出てたやつ)から知ったように思う。エンデとか、ナルニアとかのファンタジー小説がもともと好きだったというのもあるけど、テーブルトークの RPG については、まず「シナリオを作ること」のおもしろさと、それから「ゲームのシステムそのものをデザインすること」のおもしろさに惹かれてたのが大きかった。そういうタイプと、「ダイスを振って勝った負けたが楽しい」ってタイプと、「ごっこ遊びが楽しい」ってタイプとがあったよね、あの世界は。中学生になってからは勇気を出してコンベンションに参加してみたりしてね。いまもやってる人たちいるのかなあ。(ちなみに周囲でテーブルトークの RPG がはやりだしたのは中学校に入って少したってからで、自分的にはその間に少し断絶があった。)

まあそんなこんなで少年時代のある時期に強い影響を受けた人物のひとりだったことは間違いないのです。あの趣味を通して学んだことも多かったと思う。合掌。

2008-03-10

雑談。ウルトラモバイル PC (UMPC) について。

Asus の Eee PC はストレージ (SSD) が 4 GB しかないので、これにオフィスアプリを入れて仕事ばりばりという使い方は想定されていない。ウェブとメールができて、調べものやブログ更新のお供にでも使えればよいという割り切りで使うんだ、ということになっている。

Eee PC は、日本では Windows モデルしかないみたいだけど海外では Linux モデルも販売されている。カジュアルな用途に使う軽量マシンなら Windows である必要はないからか(購入時にどの程度選ばれているのかは知らないけど)。Linux で SSD で WiFi =クール! という感じなのかな。

ところで、Eee PC に先立つこと半年ほど前、Linux ベースでシリコンドライブで WiFi な(しかも Eee PC よりも垢抜けたデザインの)小型ラップトップを発表した会社があった。しかし、そのとき人びとはそれを「こいつはなに言ってんだ」という冷酷な反応で出迎えた。コンセプトが理解されないまま、結局その製品、Palm Foleo はお蔵入りになってしまった。おお、ジェフ・ホーキンスに石を投げた者どもに災いあれ。

もちろん彼の説明した Foleo の位置づけがどうにもぴんとこない代物だったことは確かで、「スマートフォンにアシスタントが必要になる」というのはいま聞いてもラディカルすぎる。ジェフ・ホーキンスは頭がよすぎるんだよ。しかし彼の能書きをすべて忘れたうえで見てみれば、このデザインの UMPC が出たら買ったという人は(いまなら)少なくないだろう。

おそらくホーキンスは彼の未来予想を必死になって説くよりも、黙って Foleo を封筒から取り出して見せたりすればよかったんだと思う。そうすれば、あとはヤられた消費者のほうから「これは、これからは○○の時代ですよ、という△△社からのメッセージなのだと思う」なんてのぼせたレビューを書いてくれたりしたんじゃないの。

2008-03-08

彼は考える。「もしも殺されずにすんだら、僕はすぐにも仕事にとりかかるんだ。そしてうんと楽しむんだ」いかにも人生は彼の目にひとしお価値をましたのである。なぜなら彼は人生のなかに、平常彼が求めているわずかのものではなく、人生が与えうるかぎりのいっさいを想定するからである。彼は人生を自分の欲望に従って見るのであって、経験上、自分に送れそうだとわかった人生、つまりは平凡きわまる人生として見てはいないのである。人生はたちまち仕事や旅、山登り、あらゆる美しいもので充満する。彼はこの決闘が悪い結果になればそれも不可能になってしまうのだと考える。ところが、決闘がなくても続いたにちがいない悪習慣のために、決闘が問題となる以前からそれはすでに不可能だったのである。彼は傷も受けずに帰ってくる。ところが依然として遊びや遠出や旅や、死によって氷久に奪われるのだとふと恐れたいっさいのものへの同じ障害を見出すのである。しかしそれを奪うには死でなく生だけで十分であるのに。仕事のほうはどうか――異例の事件は結果としてその人間にもともとあったものを、勤勉家には勤勉、閑人には怠惰を刺激するものであるから――彼はあっさり休んでしまう。

マルセル・プルースト『失われた時を求めて』(新潮社)

2008-03-03

雑談を、「だ」「である」調でお送りします。

「です」「ます」調の文体と「だ」「である」調の文体は単にスタイルの違いで交換可能なものと考えている人も多いと思うけど、じつは両者は非対称な関係にあって、「です」「ます」調で表現できない(と人によっては感じる)文というものがある、と思う。「だ」「である」調のほうが――というよりは「です」「ます」をつけないほうが――表現の自由度が高い。どういうことかというと、「です」「ます」調は形容詞と相性が悪い。

たとえば、「おもしろい」という場合、丁寧語でなければ

この本はおもしろい。

のように、ただ「おもしろい」で文を終わらせておかしなところはなにもない。しかし次の文はどうか。

この本はおもしろいです。

「おもしろいです」と書かれると、どこか舌足らずの印象を受ける人が少なくないと思う。こないだ三十路入りした人間である自分はそう感じる。なんというか、子供の作文みたいだ。「えんそくはたのしいです」。僕はこれを避けたくて「おもしろいのです」という書き方をするときがある。これはこれで微妙に文の力点が変わるのが気になるんだけど、前者の舌足らず感よりはましだということで。

駅でホームに電車が入ってくるときに「あぶないですから白線の内側までお下がりください」と言う。このアナウンスは地域や鉄道会社によって違うのだけど、とにかく東京のある路線ではこう言っている。地方から来た人がこの「あぶないですから」をおかしく感じた、という話を読んだことがある(ごめん、本で読んだかウェブだったか忘れてしまった)。その人の地元では「危険ですから」と言っていたという。これなんかも僕にはもっともな話に思われる。

形容詞の言い切りで文を終わらせるのはきわめて一般的な表現だというのに、これがしっくりこないというのは「です」「ます」調文体の大きな欠点だと思う。これは現代の国語文法的には間違っていないんだけど、いまだ権威ある用例を欠いている状況にあるからじゃなかろうか。

丁寧語による形容詞の言い切りで不自然でない表現がないわけではない。(うわ、三重否定だ。)

たいへんおいしゅうございました。

あぶのうございますから、白線の内側までお下がりください。

しかしこの「形容詞連用形ウ音便+ございます」という言い方はめっきり廃れてしまった。年配の方が言うぶんには格好もつくんだけど。「おはようございます」「ありがとうございます」に残るくらいか。このふたつは将来も化石的に残るんだろうな。

もっとも「だ」「である」調だって形容詞の終止形にむりやりつなげたら「あぶないである」となって、なんだかふざけた軍隊ごっこみたいな言い方になってしまう。しかしこういう場合ただ「あぶない」で終わらせてもまったく問題なく、「です」「ます」調が被っているような制約はない。

この「形容詞+です」に違和感を感じない世代が増えてくれば、この表現もより普及していくだろうし、たぶん僕が生きている間にそうなるだろう。若い人たちもやっぱりしっくりこないと感じ続けたら、あるいは「ございます」復権もあるかもしれないけど、まあ可能性は低い。なんにせよ、言葉は人為的に決めたとおりではなく、使いやすいように変化していくものだからね。

話を最初に戻すと、したがって、そういう表現上の窮屈さを理由に「です」「ます」調を却下している人もいるだろうということが言いたかった。長いからもう誰も読んでないだろうけど。

威圧的だとか丁寧な印象だとかは、文末の表現なんかには関係ない。「です」「ます」調で失礼なことを書くやつもいるし、簡潔な「だ」「である」文に清廉さを感じさせる人もいる。

「です」「ます」調の文章が少ないいちばんの理由はと言われれば、そこで想定されているのが基本的にウェブ日記で、日記はプライベートなものだから、ということだと思うけど。それともウェブの連中はどいつもこいつも自分をオーソリティのオーラで飾り立てたくて仕方ない愚かなエゴイストどもだから、とでも? まあ本当はそうなのかもね。

気が向いたら脱線して続くかも。