彼は考える。「もしも殺されずにすんだら、僕はすぐにも仕事にとりかかるんだ。そしてうんと楽しむんだ」いかにも人生は彼の目にひとしお価値をましたのである。なぜなら彼は人生のなかに、平常彼が求めているわずかのものではなく、人生が与えうるかぎりのいっさいを想定するからである。彼は人生を自分の欲望に従って見るのであって、経験上、自分に送れそうだとわかった人生、つまりは平凡きわまる人生として見てはいないのである。人生はたちまち仕事や旅、山登り、あらゆる美しいもので充満する。彼はこの決闘が悪い結果になればそれも不可能になってしまうのだと考える。ところが、決闘がなくても続いたにちがいない悪習慣のために、決闘が問題となる以前からそれはすでに不可能だったのである。彼は傷も受けずに帰ってくる。ところが依然として遊びや遠出や旅や、死によって氷久に奪われるのだとふと恐れたいっさいのものへの同じ障害を見出すのである。しかしそれを奪うには死でなく生だけで十分であるのに。仕事のほうはどうか――異例の事件は結果としてその人間にもともとあったものを、勤勉家には勤勉、閑人には怠惰を刺激するものであるから――彼はあっさり休んでしまう。
マルセル・プルースト『失われた時を求めて』(新潮社)