2008-05-30

どうしていまは平安時代じゃないのかな。

日本語入力

変換精度が落ちた落ちたと言われているのは、MS-IME の 2007 のことですよね。それは使ってないのでどんなもんかは分かりませんが、しかし単文節変換みたいな使い方をして変換効率がどうのとか言われても困るでしょ、と思うような記事を読んだ。

僕の場合は使い始めたワープロの頃から連文節変換が実現してたので、もっぱら、何文節かをまとめて入れては変換、という入力の仕方をしている。一文まるごと入れると長いことが多いので、だいたいそれを二三回に分けて入れているような気がする。句読点単位、というよりは細かいけど。

一文まるごと入れると長いことが多いので、/だいたいそれを二三回に分けて/入れているような気がする。

こんな感じ。ところが ATOK 2008 はこういう使い方でけっこうぎょっとするような候補を出してきますよ。

入力の話ついでに思い出したことを。

ここを読んでるような人には、なんとなくタイピングの速い猛者が多いようにお察ししますが、かくいう自分も遅い方だとは思ってなかったのです。ところが、セガの「タイピング・オブ・ザ・デッド」の体験版で遊ぶと、1分の壁がなかなか超えられない。正確にいうと、一回だけ59秒台を出せたのですが、あとはいくらがんばっても1分00秒を超えてしまう。自分の場合は御簾ミスが多いのがまずいのかも。(古文のやり過ぎで ATOK がへんな学習をしている。)みんなどう? 暇な人はちょっとやってみていただければ。余裕で超えられた、という人はぜひプレイを見てみたい。こういうの録画できるツールがあるといいんですが。

いま何か月かぶりにやってみたところ、なまってるかと思ったら1分01秒台だった。うーん、またがんばったらいけるかな。

追記 自信をなくすことはないみたいで一安心。平均がどんなもんなのかわかんなかったのでぜんぜんダメなのかと思っちゃいました。

中国

ナショナルジオグラフィック誌の前月号(ぼやぼやしてたら次の号が出てしまった)で、中国の特集をやってたのですが、そこに書いてあったことでなるほどと思ったことが。いわく、中国は政治的動乱期が終わってようやく市民の力で動き出すようになった、そして始まった爆発的な成長の過程で資源の不足や貧富の差の拡大や環境問題も起きてくる。ところがそういう中でも政府は政治的活動は厳しく取り締まっている。するとどうなるか。

だが、こうした問題はいずれも一般市民が解決するにはあまりにスケールが大きく、全体像の把握さえ難しい。政府は依然として政治の自由を厳しく制限しているため、国民は社会的な問題を避けて通ることに慣れてしまった。

つまり、自然とそういう大きい問題には積極的に関わらないように適応していく、と。これはすごく現状を説明していると思った。それに、政府という一見個人から遠いようなものが、その個人のふるまいにどう影響を与えるのかという話としてもおもしろい。

「が」は格助詞か

ウェブでときどき見かける「林檎が売ってる」という文はアリかナシかという問題。いままであんまりまじめに考えたことありませんでしたが、古典文法についていろいろ調べていくと、結構微妙な話のように思われてくる。微妙といったのは、「この問題は難しい」ということじゃなくて、「結論を急いで間違ったことを言ってしまいがち」ということで。

参考。

  • カレーが食べたい。
  • カレーが食べた。
  • 名札に名前が書いてある。
  • 名札に名前が書いてない。
  • 名札に名前が書いてた。
  • 本が置いてある。
  • 本が置いている。
  • 本が置いてる。
  • 君が読んでる本。
  • 林檎が売っている。
  • 林檎が売ってない。
  • 林檎が売ってある。
  • 林檎が売ってる。
  • 林檎が売ってた。
  • 林檎が生っている。
  • 林檎が生ってる。
  • 林檎が生ってた。

「が」という助詞はもとは連体助詞なので、現代語でも用法にそのくせが残っているようだ。

国語辞典を見ると「が」は格助詞ということになってるけど、格助詞なら「カレーが食べたい」はおかしいということになるんじゃないですか。ところが岩波国語辞典(第四版)の例文には、「主格を表す」と書いてありながら「算数がよくできる」という例文をあげている。どうも「主格」の定義が「動作主」ではなくて「述語の前にくる資格を持つ句」とでもいうようなものになっているっぽい。版が古いのがやや気がかりですが。

Microsoft Bookshelf 3.0 所収の新明解国語辞典(第五版)の「が」の項目はこんなふう。

1 その動作・作用を行う主体や、その性質・状態を有する主体を表わす。

用例・作例
鳥―鳴く
雨―降る
私―やったのではない
試験―行われる
本―有る
桜―きれいだ
負ける―勝ち

2 可能・希望・好悪・巧拙などの対象を表わす。

用例・作例
語学―出来る
住所―分からない
金―ほしい
水―飲みたい
映画―好きだ
母―恋しい
私は水泳―得意だ

なるほど考えましたね、という感じです。これも最新版じゃないのがちょっと心配ではあるけれど。ちなみにこの辞典も「格」を「〔文法で〕その言葉が、文中で他の言葉、特に、述語に対して持つ統語的(意味的)な関係。」と定義してます。なんか格の関係と主語述語の関係を恣意的に扱っているような気が。

英語やフランス語の文で「格」と言ったときには、こういう曖昧さはない。

最近の日本語の文法がどういうことになってるのかには疎いのでなんとも言えないけど、「が」は係助詞のほうがいいんじゃないの? もっとも、いまの文法では係助詞というのはそもそもあるのかしら。新明解は「は」を「副助詞」と呼んでます。もうなんでもありですね。

しかしいまは現代語の文法にはあまり興味はない。なにがいいたいかというと、現代語の「が」が歴史的経緯からその用法にある種の偏りを残しているように、古典文法における係助詞「こそ」や「ぞ」にも、その出自からくるある種のくせが残っている。そのくせをとらえられないと、古文の微妙なニュアンスは、(外国人に現代日本語の「は」と「が」の使い分けからくるニュアンスの違いを的確に把握するのが難しいのと同様に)把握できないのではないか、と。そういう意味では、古文の前ではわれわれは外国人なのだ、ということ。

古文を読んで、「助詞がいまいちぴんとこない」という感覚を軽視してはいけないと思う。日本語の達者な外国人が「は」と「が」をうまく使いこなせてないのを見て、「ああ、やっぱり彼/彼女は生粋の日本人ではないからね」とか思うんでしょ? 「ぞ」「なむ」「や」「か」「こそ」の助詞の使われかたが理解しがたいというのはそれほど決定的なことなわけですよ。

日本人だから古文もフィーリングでかなり読める、という人は「日本語なんて単語を並べれば通じるから簡単さ」という外国人と同じだと思う。そういう外国人は、日本人の友達はたくさんできるかもしれないが、五年経っても十年経っても「は」と「が」の使い分けに不自然さの残った話し方をするだろう。そういう態度で古文を読んでいては、けっきょくその時代の人々の考え方の本質にはいつまでたっても近づけないと思う。

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2008-05-22

そういえば自分も最近バッテリー買い換えたのでした。X60sだけど。

使い始めてから一年半での買い換え。だいたいいつもこのくらいのペース。サイクルカウントは、見たら294でした。毎回「空になるまで使い切る」のは充電池にはいいはずだと思ってましたが、8か月で15分しかもたなくなったというのは早い。僕は最近バッテリー使い切るのはあんまり意識しなくなってましたが、それでも交換直前まで1時間半以上はもってました(スリムライン・バッテリー、カタログ値3時間)。ていうか前も「半年でなくなった」とか言ってたし。「使い切るまでを毎日」がやっぱり酷なのかな。自分はそこまで酷使はしていなかった。「週に数回、一回につき1、2時間程度のバッテリー駆動」といったあたり。

本居宣長

前に書いた本居宣長の話の、係り結びにおける「徒」の説明が間違ってた模様。すんません。どうやら本居宣長の「徒」というのは「係助詞を含まずに用言で終わる文」全体についていうものらしい。『詞の玉緒』はまだ自分で直接は読んでない本なので、これ以上は言葉は継がないでおきます。また勘違い書くとまずい。しかし彼が形式的な分析に徹底していて云々という旨は変わるものではない、はず。

2008-06-12 追記『詞の玉緒』を読んで確認しました

あー、せめて江戸時代の印刷本くらいは読めるようになりたいな……。

少し知恵がついてきたあとで、勉強しはじめの頃に読んでいた本を読み直すのは、こうした覚え違いに気づくこともあって有用。前回流していたところに深いことが書かれてあったのだと気づいたりもする。

枕草子

八四段「里にまかでたるに」にはやられた。(段番号は底本によって前後します。)

はじめにおもしろおかしいエピソードを語って笑わせておきながら、するっと元夫婦の決定的な断絶を書いてみせ、取り返しのつかないままに打ち置いて終わらせる。一級の散文の技巧。さすがだ。

八七段「職の御曹司におはします頃、西の廂にて」もおもしろい。大野晋が形容詞「あいなし」の例によく出している、定子が「それはあいなし、かき棄てよ」と言ったという、雪山の話です。よもや古文を読みながらにやにやしてしまうとは。九九段「五月の御精進のほど」も好きだ。

人が枕草子を現代語訳したくなる気持ちがわかる。これだけ魅力的な散文が、ただ古典語で書かれているというだけで現代人から隔たってしまっているのはあまりにもったいないと思うんでしょう。しかも、そこに書かれているおもしろさには、現代の日本人が愛好するある種の cuteness があって、(古語の林に分け入ってその奥でようやく見つかるような)それに気づくと、千年前の著者との、時空を超えた親密な共感を味わうことができる。これは人に教えたくなるわけだ。「春はあけぼの」と「香爐峯の雪いかならん」くらいしか知られていないのは、たしかにもったいない。

自分でもそのうちいくつかやってみたくなりますね、現代語訳。

でもこのあたり(八〇段前後)は、文脈をきちんと捉えていかないと読み進めない話が多い、文法的にはハードな箇所で、源氏物語の「須磨返り」ではないけれど、「最初から読み進めていきましたがこのへんで挫折しました」という人は多そうです。

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2008-05-14

雑談。

Adobe Flash のインストールページでは Google ツールバーのインストールを勧められる。デフォルトでオン。あきらかにアドビは Flash および Reader のインストールベースを「広告媒体」として運用(資産運用という意味の運用)している。

アドビは扱っているソフトウェアはすべて一般的なアプリケーション(ユーティリティ的なシステムのコアな部分に関わるツールではないという意味で)であるにも関わらず、昔からインストーラは変なものばっかり採用しているような印象がある。勝手なストーリーを作っちゃいけないんだけど、営業の人がインストーラを開発する中小ベンダーの甘言にしょっちゅうだまされているんじゃないかとさえ思う。あるいは、アドビが「システムに密着したアプリケーション」になりたがっているように思えるときもある。少なくとも、Flash や Reader のインストールベースで「なにか」をしようと摸索し続けていることは確かだと思う。その「なにか」が何なのかは、アドビ自身もよくわかってなくて、だけどそれが金脈だという確信だけはあって、あきらめきれないでいる。そういういかがわしい雰囲気を、アドビの無料配布物のインストーラからは感じる……。

どうでもいいけど、自分の場合は ATOK にしてからのほうが誤変換は多い印象があるなあ。

今頃気づいたんですが、「好きこそものの上手なれ」って、「こそ」−已然形の係り結びですね。「は」で書き換えたら、「好きはものの上手なり」。(←得意気)

しかしこの調子だと、今年は雑談しかないかもしれないよ。古文読むのに忙しいから。今のペースだと、『枕草子』一冊を読み終えるのにあと一年半近くかかる計算だ。これはよろしくないので、どうにかスピードアップを図らねば(目標は年内)。だけど今でも週三時間近くは割いてますよ……。

うっかり古文書(くずし字)の読み方の入門書を借りてきてしまった。おれはいったいなにになろうというのか……。まあこいつは興味本位でちょろっと寄り道してみただけなので、無理そうならあっさり引き下がるつもりですけど。「やぶそば」の看板が読めたのにはちょっと感激しました。

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2008-05-07

私信。すみません、間違い電話です。

雑談。素人国文学の危険性について。

古文について調べてたら、たいへんにやばいサイトを見つけてしまった。怖いのでリンクはなし。

記紀万葉には、文化系版相対性理論みたいな面があるのかも。デンパが発生しやすいという意味で……。

万葉仮名の暗号っぽさとか(そんな書名の本もありました)、大化の改新以前の歴史ミステリーっぽい要素とかが一因だとは思うのですが、なんとも。自分は政治史は興味ないけど、「書き換えられた○○」とか「××皇子の陰謀」とかそういうのが好きな人は多いし。僕は歴史ミステリーは『日出処の天子』で十分だ。

文学・歴史問わず、奈良時代以前についてとなると、がぜんデンパを帯びた書籍が多くなり百鬼夜行の様相を呈してくるので、本屋や図書館では注意しなければ。しかも、まともな本か、そうでない本かは、たいていの場合タイトルだけでは判別できない。一般向けとなると『〜の謎』みたいな題名にしがちなのは偉い先生もやばい先生も同じなので、著者の素性やじっさいに本を開いての中身を確認しないとたいへんなことになるのです(神代文字とか)。まあたいてい数か所数ページを見ればほぼ見当はつくけれど。

平安時代(中古)の日本語でも、単語や用法の歴史をたどろうとするとけっきょくは万葉集とかの頃の話になってしまう。上代の日本語はおもしろいんですが、いかんせんわからないことが多すぎて、すぐに謎解きごっこになってしまうので素人には危険すぎる。

けっきょく、記紀万葉関連の本については、めんどくさいので「記述されている内容について論じていたらパス」という超ラディカルな態度で選んでます。読むのは、文字を数えてその頻度がどうとか、係り結びがどうとか、表層的なことを論じているもののみという、やや潔癖症気味のポリシー。歴史のほうに興味があったらこうはいかないだろうけど、引き返しどころを決めておかないときわめて危険な領域ということで。

あともちろん「書かれてたのは日本語じゃなかった!」系はパスです。

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2008-04-30

では、それ(スプーン、引用者注)が消えたのはどうしてなのだろうか。スプーンはいうまでもなく液体やくずれやすい食べ物を口に運ぶ道具である。器から直接に口へ流し込むことができるなら、必要ないのである。したがって、日本人がお椀に直接くちびるをつけて汁をすするようになったとき、スプーンは捨てられたのではないか。スプーンがなくなると同時に、食器を手に持って持ち上げるようになる。スプーン文化が残っている中国でも韓国でも正式には食器を手に持って食べるのは不作法である。日本のように椀はもちろん皿でも丼でも手に持つのはスプーンがないことと関係していると考えてよいだろう。

もう一つ大切なことは、熱い汁を、やけどしないですするにはスプーンが必要だということである。スプーンで運ぶうちに、わずかだが冷める。スプーンなしに熱い汁をゴクリと飲んだら口のなかは大やけど。ゴクリと飲むかわりに、すする。すするというのは、空気と汁を適当に混ぜ合わせて温度を下げている。空気を混ぜるから音がする。それで日本人は食事中に音をたてることを禁じないし、不作法だと思わない。スプーンがない以上、それは必要なことなのである。

熊倉功夫『日本料理の歴史』吉川弘文館、2007年、pp. 21-22

明日から日曜日まで出かけます。PCは持ってかないのでメールの返事等は遅れます。