どうしていまは平安時代じゃないのかな。
日本語入力
変換精度が落ちた落ちたと言われているのは、MS-IME の 2007 のことですよね。それは使ってないのでどんなもんかは分かりませんが、しかし単文節変換みたいな使い方をして変換効率がどうのとか言われても困るでしょ、と思うような記事を読んだ。
僕の場合は使い始めたワープロの頃から連文節変換が実現してたので、もっぱら、何文節かをまとめて入れては変換、という入力の仕方をしている。一文まるごと入れると長いことが多いので、だいたいそれを二三回に分けて入れているような気がする。句読点単位、というよりは細かいけど。
一文まるごと入れると長いことが多いので、/だいたいそれを二三回に分けて/入れているような気がする。
こんな感じ。ところが ATOK 2008 はこういう使い方でけっこうぎょっとするような候補を出してきますよ。
入力の話ついでに思い出したことを。
ここを読んでるような人には、なんとなくタイピングの速い猛者が多いようにお察ししますが、かくいう自分も遅い方だとは思ってなかったのです。ところが、セガの「タイピング・オブ・ザ・デッド」の体験版で遊ぶと、1分の壁がなかなか超えられない。正確にいうと、一回だけ59秒台を出せたのですが、あとはいくらがんばっても1分00秒を超えてしまう。自分の場合は御簾ミスが多いのがまずいのかも。(古文のやり過ぎで ATOK がへんな学習をしている。)みんなどう? 暇な人はちょっとやってみていただければ。余裕で超えられた、という人はぜひプレイを見てみたい。こういうの録画できるツールがあるといいんですが。
いま何か月かぶりにやってみたところ、なまってるかと思ったら1分01秒台だった。うーん、またがんばったらいけるかな。
追記 自信をなくすことはないみたいで一安心。平均がどんなもんなのかわかんなかったのでぜんぜんダメなのかと思っちゃいました。
中国
ナショナルジオグラフィック誌の前月号(ぼやぼやしてたら次の号が出てしまった)で、中国の特集をやってたのですが、そこに書いてあったことでなるほどと思ったことが。いわく、中国は政治的動乱期が終わってようやく市民の力で動き出すようになった、そして始まった爆発的な成長の過程で資源の不足や貧富の差の拡大や環境問題も起きてくる。ところがそういう中でも政府は政治的活動は厳しく取り締まっている。するとどうなるか。
だが、こうした問題はいずれも一般市民が解決するにはあまりにスケールが大きく、全体像の把握さえ難しい。政府は依然として政治の自由を厳しく制限しているため、国民は社会的な問題を避けて通ることに慣れてしまった。
つまり、自然とそういう大きい問題には積極的に関わらないように適応していく、と。これはすごく現状を説明していると思った。それに、政府という一見個人から遠いようなものが、その個人のふるまいにどう影響を与えるのかという話としてもおもしろい。
「が」は格助詞か
ウェブでときどき見かける「林檎が売ってる」という文はアリかナシかという問題。いままであんまりまじめに考えたことありませんでしたが、古典文法についていろいろ調べていくと、結構微妙な話のように思われてくる。微妙といったのは、「この問題は難しい」ということじゃなくて、「結論を急いで間違ったことを言ってしまいがち」ということで。
参考。
- カレーが食べたい。
- カレーが食べた。
- 名札に名前が書いてある。
- 名札に名前が書いてない。
- 名札に名前が書いてた。
- 本が置いてある。
- 本が置いている。
- 本が置いてる。
- 君が読んでる本。
- 林檎が売っている。
- 林檎が売ってない。
- 林檎が売ってある。
- 林檎が売ってる。
- 林檎が売ってた。
- 林檎が生っている。
- 林檎が生ってる。
- 林檎が生ってた。
「が」という助詞はもとは連体助詞なので、現代語でも用法にそのくせが残っているようだ。
国語辞典を見ると「が」は格助詞ということになってるけど、格助詞なら「カレーが食べたい」はおかしいということになるんじゃないですか。ところが岩波国語辞典(第四版)の例文には、「主格を表す」
と書いてありながら「算数がよくできる」
という例文をあげている。どうも「主格」の定義が「動作主」ではなくて「述語の前にくる資格を持つ句」とでもいうようなものになっているっぽい。版が古いのがやや気がかりですが。
Microsoft Bookshelf 3.0 所収の新明解国語辞典(第五版)の「が」の項目はこんなふう。
1 その動作・作用を行う主体や、その性質・状態を有する主体を表わす。
用例・作例
鳥―鳴く
雨―降る
私―やったのではない
試験―行われる
本―有る
桜―きれいだ
負ける―勝ち2 可能・希望・好悪・巧拙などの対象を表わす。
用例・作例
語学―出来る
住所―分からない
金―ほしい
水―飲みたい
映画―好きだ
母―恋しい
私は水泳―得意だ
なるほど考えましたね、という感じです。これも最新版じゃないのがちょっと心配ではあるけれど。ちなみにこの辞典も「格」を「〔文法で〕その言葉が、文中で他の言葉、特に、述語に対して持つ統語的(意味的)な関係。」
と定義してます。なんか格の関係と主語述語の関係を恣意的に扱っているような気が。
英語やフランス語の文で「格」と言ったときには、こういう曖昧さはない。
最近の日本語の文法がどういうことになってるのかには疎いのでなんとも言えないけど、「が」は係助詞のほうがいいんじゃないの? もっとも、いまの文法では係助詞というのはそもそもあるのかしら。新明解は「は」を「副助詞」と呼んでます。もうなんでもありですね。
しかしいまは現代語の文法にはあまり興味はない。なにがいいたいかというと、現代語の「が」が歴史的経緯からその用法にある種の偏りを残しているように、古典文法における係助詞「こそ」や「ぞ」にも、その出自からくるある種のくせが残っている。そのくせをとらえられないと、古文の微妙なニュアンスは、(外国人に現代日本語の「は」と「が」の使い分けからくるニュアンスの違いを的確に把握するのが難しいのと同様に)把握できないのではないか、と。そういう意味では、古文の前ではわれわれは外国人なのだ、ということ。
古文を読んで、「助詞がいまいちぴんとこない」という感覚を軽視してはいけないと思う。日本語の達者な外国人が「は」と「が」をうまく使いこなせてないのを見て、「ああ、やっぱり彼/彼女は生粋の日本人ではないからね」とか思うんでしょ? 「ぞ」「なむ」「や」「か」「こそ」の助詞の使われかたが理解しがたいというのはそれほど決定的なことなわけですよ。
日本人だから古文もフィーリングでかなり読める、という人は「日本語なんて単語を並べれば通じるから簡単さ」という外国人と同じだと思う。そういう外国人は、日本人の友達はたくさんできるかもしれないが、五年経っても十年経っても「は」と「が」の使い分けに不自然さの残った話し方をするだろう。そういう態度で古文を読んでいては、けっきょくその時代の人々の考え方の本質にはいつまでたっても近づけないと思う。
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