そういえば自分も最近バッテリー買い換えたのでした。X60sだけど。
使い始めてから一年半での買い換え。だいたいいつもこのくらいのペース。サイクルカウントは、見たら294でした。毎回「空になるまで使い切る」のは充電池にはいいはずだと思ってましたが、8か月で15分しかもたなくなったというのは早い。僕は最近バッテリー使い切るのはあんまり意識しなくなってましたが、それでも交換直前まで1時間半以上はもってました(スリムライン・バッテリー、カタログ値3時間)。ていうか前も「半年でなくなった」とか言ってたし。「使い切るまでを毎日」がやっぱり酷なのかな。自分はそこまで酷使はしていなかった。「週に数回、一回につき1、2時間程度のバッテリー駆動」といったあたり。
本居宣長
前に書いた本居宣長の話の、係り結びにおける「徒」の説明が間違ってた模様。すんません。どうやら本居宣長の「徒」というのは「係助詞を含まずに用言で終わる文」全体についていうものらしい。『詞の玉緒』はまだ自分で直接は読んでない本なので、これ以上は言葉は継がないでおきます。また勘違い書くとまずい。しかし彼が形式的な分析に徹底していて云々という旨は変わるものではない、はず。
2008-06-12 追記。『詞の玉緒』を読んで確認しました。
あー、せめて江戸時代の印刷本くらいは読めるようになりたいな……。
少し知恵がついてきたあとで、勉強しはじめの頃に読んでいた本を読み直すのは、こうした覚え違いに気づくこともあって有用。前回流していたところに深いことが書かれてあったのだと気づいたりもする。
枕草子
八四段「里にまかでたるに」にはやられた。(段番号は底本によって前後します。)
はじめにおもしろおかしいエピソードを語って笑わせておきながら、するっと元夫婦の決定的な断絶を書いてみせ、取り返しのつかないままに打ち置いて終わらせる。一級の散文の技巧。さすがだ。
八七段「職の御曹司におはします頃、西の廂にて」もおもしろい。大野晋が形容詞「あいなし」の例によく出している、定子が「それはあいなし、かき棄てよ」と言ったという、雪山の話です。よもや古文を読みながらにやにやしてしまうとは。九九段「五月の御精進のほど」も好きだ。
人が枕草子を現代語訳したくなる気持ちがわかる。これだけ魅力的な散文が、ただ古典語で書かれているというだけで現代人から隔たってしまっているのはあまりにもったいないと思うんでしょう。しかも、そこに書かれているおもしろさには、現代の日本人が愛好するある種の cuteness があって、(古語の林に分け入ってその奥でようやく見つかるような)それに気づくと、千年前の著者との、時空を超えた親密な共感を味わうことができる。これは人に教えたくなるわけだ。「春はあけぼの」と「香爐峯の雪いかならん」くらいしか知られていないのは、たしかにもったいない。
自分でもそのうちいくつかやってみたくなりますね、現代語訳。
でもこのあたり(八〇段前後)は、文脈をきちんと捉えていかないと読み進めない話が多い、文法的にはハードな箇所で、源氏物語の「須磨返り」ではないけれど、「最初から読み進めていきましたがこのへんで挫折しました」という人は多そうです。
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