2008-12-03

ビレッジセンターなくなっちゃったね……。あっけない幕切れ。

ここしばらく忙しかったのだけど、恐怖のオペレーションも無事終わり、やっと一息。ここのところ外食ばっかりだったし、掃除もしないので部屋も心も荒れに荒れていた。

源氏物語の分量

源氏物語を最初から読むと「須磨」とか「明石」の巻でたいてい挫折するという。全体の分量としてはプルーストの『失われた時を求めて』よりは多くないように見えるけど、古文というハンディキャップがある。便宜上ほぼ同量と考えて、『失われた時を求めて』は僕の場合読むのにおよそ一年かかったから、古文を現代文と同じペースで読みこなせれば、まあだいたいそれくらいで読み終わることになる。枕草子も読むのにおよそ一年かかったが、分量としては源氏物語の八分の一くらいだろうか。古文を読む速さは現代文の八分の一ということか。もし枕草子と同じペースで源氏物語を読んでいくと、八年かかることになる。とはいっても、さすがにいまでは読むのはそこまで遅くない。

分量的に枕草子とほぼ同じくらいの「蜻蛉日記」をいま読んでるけど、一か月半で半分ほどまで読んだ。つまり読む速さは四倍ほど向上したと考えてもいい。現代文読む速さの半分!? そんなに速く読めてる自信ないけど、仮にこのペースなら、源氏物語を読むのにはたったの二年しかかからないことになる。逆にいうと、一年以上かかるかしら、みたいな見通しで始めた人はぜんぜん読みが甘いともいえる。

現状はほかの本読む時間をまったくとってないから、それを差し引いて考えると三年くらいかかるだろうか。

……。

いや、はじめから数年かかるとわかってて読み始めれば、息切れしないかなと思って。

ところで、ひとくくりに五十四帖といっても数えてみると各巻の分量はそれぞれずいぶん違っている。あの巻は長いから読むのがたいへん、なんて下世話な話は、えらいひとはすすんで書いたりしゃべったりはしない。下世話な自分が数えてみた、各巻の「新古典文学大系」でのページ数。

# 巻名 分量(ページ数)
1 桐壺(きりつぼ) 28
2 帚木(ははきぎ) 52
3 空蝉(うつせみ) 16
4 夕顔(ゆふがほ) 52
5 若紫(わかむらさき) 52
6 末摘花(すゑつむはな) 36
7 紅葉賀(もみじのが) 34
8 花宴(はなのえん) 16
9 葵(あふひ) 52
10 賢木(さかき) 54
11 花散里(はなちるさと) 8
12 須磨(すま) 48
13 明石(あかし) 44
14 澪標(みをつくし) 36
15 蓬生(よもぎふ) 28
16 関屋(せきや) 8
17 絵合(ゑあはせ) 22
18 松風(まつかぜ) 26
19 薄雲(うすぐも) 36
20 朝顔(あさがほ) 26
21 少女(をとめ) 54
22 玉鬘(たまかづら) 46
23 初音(はつね) 22
24 胡蝶(こてふ) 26
25 螢(ほたる) 24
26 常夏(とこなつ) 26
27 篝火(かがりび) 6
28 野分(のわき) 22
29 行幸(みゆき) 32
30 藤袴(ふぢばかま) 20
31 真木柱(まきばしら) 42
32 梅枝(うめがえ) 24
33 藤裏葉(ふぢのうらば) 28
34 若菜上(わかなじやう) 104
35 若菜下(わかなげ) 106
36 柏木(かしはぎ) 44
37 横笛(よこぶえ) 22
38 鈴虫(すずむし) 18
39 夕霧(ゆふぎり) 74
40 御法(みのり) 24
41 幻(まぼろし) 26
42 匂宮(にほふのみや) 20
43 紅梅(こうばい) 18
44 竹河(たけかは) 48
45 橋姫(はしひめ) 42
46 椎本(しひがもと) 42
47 総角(あげまき) 92
48 早蕨(さわらび) 22
49 宿木(やどりぎ) 96
50 東屋(あづまや) 66
51 浮舟(うきふね) 74
52 蜻蛉(かげろふ) 60
53 手習(てならひ) 70
54 夢浮橋(ゆめのうきはし) 20

この表で役に立つことはとくにないです。ふーんと思って眺めるだけのもの。しいてなにかいうなら、極端に短い巻がいくつかあるというのと、「若菜」は上下に分かれていてもなおそれぞれ圧倒的に長いということくらい。

「蜻蛉日記」読み終わったら手つけ始めるか。

ツとヌが同じ動詞に付く場合

同じ動詞がツ形もヌ形もとることがあります。その場合ツ形は完成相を、ヌ形は起動相を表します。

(12)a 我が袖に降りつる雪も流れ行きて妹が手元に(=アノ子ノ袖ニ)い行き触れぬか(万 2320)
b 梓弓おして春雨今日降りぬ明日さへ降らば若菜摘みてむ(古今 20)

(12a) は「降った」、(12b) は「降るようになった」の意(中西宇一 1996)、

(13)a 「さらに知られじと思ひつるものを」とて、髪を振りかけて泣く[物ノ怪ノ]けはい、ただ昔見給ひし物の怪のさまと見えたり。(源・若菜下)
b 思はぬ人に押されぬる宿世になむ、世は思ひの外なるものと思ひ侍りぬる。(源・乙女)

(13a) は「決して本性は知られまいと思っていたのに(つい本性を現してしまった)」、(13b) は「この世は思いがけない成り行きになるものだと思うようになった」の意(鈴木泰 1999)と考えられます。

(小田勝『古代日本語文法』おうふう、2007 年、p. 76)

何回か引用しているこの本、おもしろいのでこれについてそのうちちょっとご紹介したいところ。

それにしても、もうこのページはぜんぜん更新情報じゃない。いいかげんどこかに古文の話をするブログでも用意して移るべきか。

源氏の分量の話を書いてしばらく見直してたら、「『失われた時を求めて』をフランス語で読んだら何年かかるのか」というおそろしい問いが浮かんできてしまった。そして人生は有限であること、一生に読める本は限られているということに思いをはせる。

もう寝よう。明日も読むべきものがある。

2008-11-11

岩波文庫版『枕草子』を読んでて生じた疑問点を、図書館から借りてきた新古典文学大系版で潰していく作業をしてたんだけど、それがようやく一通り終わった。

やはり岩波文庫版は注も解釈も古かった。注が弱いのは読む前からわかってたけど。本文をどこで段として区切るかという、その分けかたも違っていて、新古典文学大系のほうがより無難になっている。これから読む人には、新しいほうをお勧めするね。

原文を読んで、辞書を引いて、その上でいくら考えてもよく意味がわからなかった箇所というのは、新古典文学大系の解釈を見ても、これはわからなくても仕方がないよな、と思うものが多かった。たとえば歴史的な背景を知ってないとぴんとこないところだったり、そもそもいまだに文意がよくわかっていないところだったり。

でも最初に原文のみのやつをひたすら調べて読み通したのは結果としては正解だったと思う。基礎体力が付いた。そしてそういう基礎体力作りとしての使い方なら、べつに岩波文庫版でも問題はない。新しい研究内容が反映されてたほうが、とか考えるのはスタート地点に立ってからの話で、まずはそのスタート地点に着くまでがたいへんだった。

現代語訳が付いてたら、疑問点が出るまで本文を考えたりはしなかっただろう。現代語訳は、訳として完成度が高いと「ここはなにを言いたいのかよくわからないな」という本文の怪しいところが覆い隠されてしまうし、逐語訳調だとそもそも訳文の意味がよくわからなくてへんな方向に悩んでしまったりもする。「知らないべきであったのだなあ」とか、ああいうのはほとんど人造言語みたいなもので、意味を考えるときに頭の中で使う分にはいいけど、それで現代語にしたつもりになってはいけない。

といっても、これはあくまで自分のやり方で、現代語があったほうがやりやすいという考えを否定するものではない。自分のやり方はちょっとマゾヒスティックだ。それに文学作品として鑑賞する目的なら現代語訳で読んでもまったく問題ないと思う(思った)。和歌や俳句ならともかく、散文作品は翻訳できるのが強みなんだから。もちろん人造言語じゃない方向の訳でだよ。そっちの方向の訳文で(あわよくば原文もとか横着を目論みつつ)読もうと考えるのがいちばんよろしくないのではないか。意味がよくわからないうえに、退屈で。

章段分けはほかの本で言及されてるときに重要だから、そこはちょっと古い岩波文庫版は分が悪い。

さてこのアプローチは、古文以外の外国語を読むのにも使えるのだろうか。

ストリートファイターIV

対戦がそこそこできるようになってくるとおもしろくなってきた。それにしても、まさかこの歳になっていまだにボディプレスでめくったり波動拳をダブルラリアットで抜けたりしてるとは思わなんだ。

ふつうに対戦してるだけで満足なんだけど、カード作ったほうがいいのかな。

ところで今回は対戦だとわずかにタイムラグがあるような気がする。筐体間でTCP/IPとかで通信してるんじゃないだろうな。液晶のせいだと言う人もいるけど、あれってそんなに影響出るものなの?

それにしてもストIVの画面に慣れてしまうと、それまでの格ゲーがすごくしょぼく見えてしまう。アニメーションパターン数が多いと言われていた「ヴァンパイア」シリーズが紙芝居のように見えてしまったのには愕然とした。ストリートファイターIIIなどは、出た当時知人をして「現実はこんなにパターン数多くない」と言わしめたほどだったのに、それすらいま見るとよくできたパラパラマンガといった感じだ……。また遊べばすぐに感覚戻るんだろうけど、目が肥えてしまった自分がちょっと残念。でもどれももうおおむね10年以上前のゲームなんだよね……。

エディタ話

ちょっと前の話だけど。

膨大なテキストファイルのデータを修正する作業をメモ帳でやろうとしていた友達が「タブかスペースかの区別がつかない」とか言っているので、テキストエディタなるものの存在を教えて差し上げる。EmEditor をお勧めする。あと TeraPad の名前も挙げたけど、いまのトレンドとはやや外れてるか。

大工たちの食事の謎

これもちょっと前の話だけど、まだ書いてなかった。

『日本料理の歴史』という本に、枕草子にある話としてこんなことが書いてある。

清少納言の『枕草子』に大工たちの食事を描写したところがある。彼らは食べ物が運ばれてくるのを今や遅しと待ちうけていて、汁物がくると、みな飲んでしまい、空になった土器を置いてしまう。次におかずがくると、これもみな食べてしまってもうご飯はいらないのかと思っていると、ご飯もあとからくるとまたすぐなくなってしまった、といって「いとあやしけれ」というわけである。汁と飯、お菜と飯とを交互に食べていくのが今も続く和食の食べ方だが、お腹のすいた大工には、そんな作法は関係なかったようである。

『枕草子』の記事では、大工の食事がどの時間のものであったかわからない。

熊倉功夫『日本料理の歴史』吉川弘文館、2007年、pp. 40-41

ふーん、おもしろい、と思うでしょ。自分もそう思った。だけどこの本を読んでいたときは、まだ枕草子は途中だったから、あとでこういう話が出てくるんだな、と思うくらいで読み流した。

ところが読み終わってみると、こんな話、枕草子のどこにもなかったのだ! これはいったいどうしたことだ。この件はいまでも謎。出典とした書名が書いてあれば参照できたのだけど。

2008-11-01

さて、新日本古典文学大系の源氏物語を買ってしまった。もう後には引けない。

そういえば、前回ちらっと言及した大野晋の『源氏物語』、あんなことを書いていたその月にちょうど文庫になっていた。岩波現代文庫。

(作用|形状)性(名詞句|用言)

古代語では、(1) のように、用言の連体形を、そのまま名詞句として用いることができました。これを準体句といいます。準体句は、主名詞が顕在していない連体句とみることができます。

(1) a 仕うまつる人の中に心たしかなる[人]を選びて(竹取)
b 昔、月日の行く[コト]をさへ嘆く男(伊勢 91)

(1a) のように、顕在していない主名詞にヒトやモノが想定される準体句を形状性名詞句、(1b) のように、顕在していない主名詞にコトやノが想定される準体句を作用性名詞句といいます(石垣謙二 1942)。

日本語の用言は、形状性用言と作用性用言との2つに分けられます。形状性用言とは、終止形がイ段音の語(形容詞・形容動詞・ラ変動詞、および「べし・たり・けり・き」などの助動詞)と動詞「見ゆ・聞ゆ・思ゆ・侍ふ・おはす・という・になる」、助動詞「ず・む・らむ・けむ」です。それ以外の用言は、作用性用言です。作用性名詞句(〜コトの意の準体句)の準体部に現れる用言には制限がありませんが、形状性名詞句(〜モノの意の準体句)の準体部に現れる用言は、一般に、形状性用言に限られます(石垣謙二 1942)。実際、(1a) は形状性名詞句ですが、準体部は形状性用言(「たしかなり」)になっています。例外は 1. のような句型で、作用性用言で形状性名詞句(〜モノの意の準体句)を構成する場合は、必ず主語になり、かつ述語は形状性用言になります(石垣謙二 1942)。

1. 猛き武士の心をも慰むる△は歌なり。(古今・仮名序)

したがって、たとえば 2. は、「渡り給ふ」が作用性用言なので、同格構文(「大臣の渡り給ふ[大臣]」)ではありえず、作用性名詞句(「大臣の渡り給ふ[コト]」を待ちけるほどに)ということになります。

2. 頼信、大臣の渡り給ふ△を待ちけるほどに(今昔 27-12)

作用性名詞句が主語になるとき、述語は必ず形状性用言になります(これを「作用性用言反撥の法則」(石垣謙二 1942)といいます)。すなわち、日本語には、2〜4. の句型はありますが、1. の句型は存在しません。

1. *子供の群がるが騒ぐ。 <作用性名詞句−作用性用言>
2. 子供の群がるが騒がし。 <作用性名詞句−形状性用言>
3. 子供の群がれるが騒ぐ。 <形状性名詞句−作用性用言>
4. 子供の群がれるが騒がし。 <形状性名詞句−形状性用言>

(小田勝『古代日本語文法』おうふう、2007 年、pp. 150-156)

注意して読まないと誤解する、ひじょうにややこしい箇所。

現代語で例の「リンゴが売ってる」問題を考えるのにも関係してくるかもしれないね。

形状性用言の定義は一見恣意的だけど、英語でいえば補語をとる自動詞(SVC の文型になるやつ、be, become, look, sound, etc.)というのにあたっている。

ノリナガ、こないだパーマかけたのよね

『玉勝間』二の巻。

宣長、縣居大人にあひ奉りしは、此里に一夜やどり給へりしをり、一度のみなりき、

宣長は、道を尊み古を思ひてひたぶるに道の明らかならんことを思ひ、……

宣長の一人称は「宣長」。そんだけ。

更級日記

昔より、よしなき物語、歌のことをのみ心にしめで、夜昼思ひて、おこなひをせましかば、いとかかる夢の世をば見ずもやあらまし。

(『更級日記』岩波文庫、p. 68)

訳 昔から、くだらない物語や歌に夢中になってばかりいないで、昼夜一心にやるべきことをやっていれば、こんな目には遭わなかったのではないだろうか。

最近忙殺され疲れてるせいもあるのか、いろんなことで自信をなくしたり悲観的な考えに走ってしまったりしがち。まさか平安女流文学の身の上を嘆く調子が乗り移ったというわけでもないけどさ。

それで現実逃避に古文を読む。健全でないが、悪いのは現実逃避でなくて、現実のほうで事態を改善する行動を起こす勢いがないことだね。

ATOK

どんどんあてにならないと感じるようになっている。「披露が激しく」とか。「酒という肴は」という変換を出してきたことがあるけど(「鮭という魚は」と書こうとしてた)、これなんて空気を読んだつもりで得意げに間違っているような変換だ。

2008-09-21

今日はおしまいに、「エレベーター」と「エスカレーター」、どっちがどっちだったかを思い出すための秘密のおまじないをご紹介します。ライフハック。

ATOK

ATOK の月額 300 円の販売モデルを「定額」と呼ぶのってへんじゃない? 定額というなら、パッケージを買った人のことでしょ。月単位の時間課金なんだから、「月極」とでもすればいい。変換量に応じてとか日単位とか時間単位で課金しているコースがあるわけでもなし。定額という言葉の意味をわかって使っているのだろうか。さすが正しい日本語のジャストシステムですこと。

紫式部日記

あと七、八ページなのでもうすぐ読み終わる。けっこうおもしろいことがあるんだけど、うまく書きにくい。

まずこの日記というのは、中宮彰子がお産のために父藤原道長の私邸に下がっているところから、皇子誕生、そしてそのお祝いにまつわる後日談などを、彰子付きの女房であった紫式部が書いた記録というのが基本。こうしたことを書いてある箇所は基本的に「めでたいムード一色」で書かれている。

ところが、書いているうちに紫式部の気が滅入ってきたのか、「つらい世の中」とか「みんながわたしを嫌っている」みたいなことを言い始める。そしてだんだんそういう陰鬱な記述が増えてきて、終わりに近くなると、突然、消息文(つまり手紙文)になってしまう。これはどうも本文の原稿を道長か誰かに送ったときに、故意か事故かはわからないけど、それに付けた私信部分も書写されて流通してしまったような感じ。

で、その消息文のところでは内裏の女房のだれが可愛いとかなんとかみたいな人物評になっていく。そして話は外見から人間の中身のほうに移ってきて、和泉式部・赤染衛門・清少納言をむちゃくちゃに言い落とす、有名な批評を述べたてる。そのあと、そこまでばっさり斬っておきながら、「なんの取り柄もないわたし」みたいなことを言い出すという、あらすじとしてはそういう文書。

へんな本だ。

ほとんど神経症の一歩手前じゃないかと思った。鬱の傾向のある人のブログなんかがまさにこういう流れになったりしそう。それと、彼女には男性恐怖症的な傾向も感じる。「同性愛的」と書いてる本もあったけど。

紫式部日記の内面的分析は、岩波の「古典を読む」シリーズの、先日亡くなった大野晋による『源氏物語』が詳しい。このシリーズ、図書館で『枕草子』を開いたら(誰が書いてたかは忘れちゃいました)、「清少納言は中宮定子のお姉さん的な感じもあったのよね」みたいなことが書いてあって、「そういうゆるい話のシリーズなのかな」と思いながら『源氏物語』のほうを開けたら、いきなり表とともに「名詞を直接受けないハの割合は四割を超えている」みたいな文が目に飛び込んできて、そのギャップにびっくりした記憶がある。さすが御大だと思った。紫式部日記を読み終わったらもう一回読んでみようかな。

文法的な興味で読み始めた古典だけど、中身としては僕はやはり歴史的なことよりも文学的なほうに目が行く。こういう、個人の屈折した本音だとかがにじみ出てくるような「怪文書」なんかにも心惹かれるものがある。枕草子でも、僕が好きなのは清少納言が人に出し抜かれたり、コンプレックスを吐露したりするような段なんだよね。こういう面白さは、近代以降の読者はみんなそれぞれ独自に発見してたと思う。樋口一葉とか。

それにしても驚くのは、千年前にこういう近代的な意味の「個人」という概念が通用するような文書が書かれていたということ。だってフーコー先生とかの言いっぷりだと、「個人」という概念はついこの間できたモノなんだという感じじゃないですか。「古代人には内面はなかった」と。だけどそれも普遍的というよりはヨーロッパ的な説に過ぎないのかもしれない。

しかし近代までは、たしかにこの紫式部日記にせよ源氏物語にせよ、こんなどろどろした本だというのに、昔の人は「もののあはれ」とかさっぱりした名前を付けて「みんなの文化的な共有財産」にしちゃってたんだから、やっぱりそういうものなのかもしれない。精神分析的な読み方に凝ってはよくないとは思うけど、そこまでしなくても現代人だったら、ある人物のああいう文章を読めば「この人は滅入ってる」ということぐらい容易に察知できるだろう。だいたい抑圧されたら滅入るなんてのは、いつの時代の人間だって同じはずだと思う。だけどそれを言い表すボキャブラリがなかっただけかもしれない。

うーん、やっぱりここで書くのは難しいな。

今日のライフハック

エレベーターとエスカレーターは、人と話をしているときなど、どっちがどっちだかわからなくなったりすることがよくある(よね?)。そんなとき、唱えるだけでその区別をまざまざと思い出すことができる、秘密の言葉があるのです。今日はそれをご紹介しましょう。それは、

「エレベーターアクション」

ですっ! ひとたびこの言葉を口にすると、しゃがんで銃弾をかわしたりする主人公や敵キャラとともに、そのステージがチープなドット絵で頭の中によみがえります。そして、そうそう、これがエレベーターだった!とはっきりするというわけ。ほんとに効果あるよ。まじでおすすめするから。ぜったい間違えなくなる。

2008-09-10

もうあまりにもどうでもいいことですが、茂木健一郎って桃井はるこに似てないかな(逆か)。

デザイン

デザイナーに会社のパンフレットに掲載する地図を作ってもらうことになり、その原稿を作る。自分なりにデフォルメを利かせて、会社の人に意見を聞いてみると、肯定的な評価があんまりない。

それで最初は落ち込んだのだけど、もらったコメントをよく振り返ってみると、そのほとんどすべてが「○○が載ってない」という文言に集約されることに気づいた。そういうことか。

会社の人たちはデザイナーでもなんでもないので、デフォルメの巧拙とかには目がいかない。だから地図を見せられて言えることは、結局「○○が載ってない」という指摘くらいなのだ。自分も、他人が作った地図の原稿を見せられたら、言うに事欠いて同じようなコメントをしていたかもしれない。

ということで、この手の意見は遠慮なくすべて無視することに。だって作ってるときは「どこまでシンプルにできるか」を考えて作ってたんだから、みんなの意見を取り入れたらまた雑然とした不格好なものに戻ってしまう。こういうときには民主的でないほうがいいのよ。道順を図示するためのものなんだから、「歩道橋がない」とか「○○ビルがない」とかいう指摘に応えていると、どんどん悪くなっていく。あぶないあぶない。

これに気づいたとき、デザインというものの本質をかすかに垣間見たような気がした。やっぱりプロというものは、「削る」プロなんだろうなあ、と。

紫式部日記とか

あんまり書いてないけど、読んでます。いま半分くらいまで読んだ。たしかに紫式部の文章は、枕草子と比べると難しい。というか、長い(一文が)。しかしこちとら基礎体力をつけて挑んでいるからね。がんばるよ。

それまでは、基本的に読んだことある古文はほとんど清少納言の文章ばっかりだったので、こうして紫式部日記を読み始めるとやっぱり古文でも人によって雰囲気の違いが出るもんだなあと思う。それを感じられるようになっただけでも進歩してるということだと思いたい。

あと平行して、枕草子のほうで読んでてよくわからなかった箇所を「新日本古典文学大系」の注釈で解決していくという作業を始めた。とくに最初のほうは、ほんとに知識ゼロで始めてるから読めてなかったところが多い。「なるほどそういうことか」と膝を打つようなことも少なくないけど、表現についての注釈が豊富な「新大系」でそもそも読み始めていたら、読み流してしまい大した感慨もわかなかっただろうな、と思う。悪戦苦闘したからこそ、注釈を読んで大いに溜飲が下がるというわけで。

ついでに「赤染衛門集」まで読み出したので、若干さばききれなくなっているかも。枕草子も紫式部日記もこれも、内容についていろいろ書きたいことはあるものの、その時間がない。

あと本当は『玉勝間』も読みたくて買ってあるんだけど、積んであるままだ(まあこれは厳密に古文というのとは違う)。長いキューだ……。それにまだ五十四帖の大物だって残ってる。