彼は考える。「もしも殺されずにすんだら、僕はすぐにも仕事にとりかかるんだ。そしてうんと楽しむんだ」いかにも人生は彼の目にひとしお価値をましたのである。なぜなら彼は人生のなかに、平常彼が求めているわずかのものではなく、人生が与えうるかぎりのいっさいを想定するからである。彼は人生を自分の欲望に従って見るのであって、経験上、自分に送れそうだとわかった人生、つまりは平凡きわまる人生として見てはいないのである。人生はたちまち仕事や旅、山登り、あらゆる美しいもので充満する。彼はこの決闘が悪い結果になればそれも不可能になってしまうのだと考える。ところが、決闘がなくても続いたにちがいない悪習慣のために、決闘が問題となる以前からそれはすでに不可能だったのである。彼は傷も受けずに帰ってくる。ところが依然として遊びや遠出や旅や、死によって氷久に奪われるのだとふと恐れたいっさいのものへの同じ障害を見出すのである。しかしそれを奪うには死でなく生だけで十分であるのに。仕事のほうはどうか――異例の事件は結果としてその人間にもともとあったものを、勤勉家には勤勉、閑人には怠惰を刺激するものであるから――彼はあっさり休んでしまう。
マルセル・プルースト『失われた時を求めて』(新潮社)
2008-03-05
更新情報
texttemplate.py を地味に更新。
2008-03-03
雑談を、「だ」「である」調でお送りします。
「です」「ます」調の文体と「だ」「である」調の文体は単にスタイルの違いで交換可能なものと考えている人も多いと思うけど、じつは両者は非対称な関係にあって、「です」「ます」調で表現できない(と人によっては感じる)文というものがある、と思う。「だ」「である」調のほうが――というよりは「です」「ます」をつけないほうが――表現の自由度が高い。どういうことかというと、「です」「ます」調は形容詞と相性が悪い。
たとえば、「おもしろい」という場合、丁寧語でなければ
この本はおもしろい。
のように、ただ「おもしろい」で文を終わらせておかしなところはなにもない。しかし次の文はどうか。
この本はおもしろいです。
「おもしろいです」と書かれると、どこか舌足らずの印象を受ける人が少なくないと思う。こないだ三十路入りした人間である自分はそう感じる。なんというか、子供の作文みたいだ。「えんそくはたのしいです」。僕はこれを避けたくて「おもしろいのです」という書き方をするときがある。これはこれで微妙に文の力点が変わるのが気になるんだけど、前者の舌足らず感よりはましだということで。
駅でホームに電車が入ってくるときに「あぶないですから白線の内側までお下がりください」と言う。このアナウンスは地域や鉄道会社によって違うのだけど、とにかく東京のある路線ではこう言っている。地方から来た人がこの「あぶないですから」をおかしく感じた、という話を読んだことがある(ごめん、本で読んだかウェブだったか忘れてしまった)。その人の地元では「危険ですから」と言っていたという。これなんかも僕にはもっともな話に思われる。
形容詞の言い切りで文を終わらせるのはきわめて一般的な表現だというのに、これがしっくりこないというのは「です」「ます」調文体の大きな欠点だと思う。これは現代の国語文法的には間違っていないんだけど、いまだ権威ある用例を欠いている状況にあるからじゃなかろうか。
丁寧語による形容詞の言い切りで不自然でない表現がないわけではない。(うわ、三重否定だ。)
たいへんおいしゅうございました。
あぶのうございますから、白線の内側までお下がりください。
しかしこの「形容詞連用形ウ音便+ございます」という言い方はめっきり廃れてしまった。年配の方が言うぶんには格好もつくんだけど。「おはようございます」「ありがとうございます」に残るくらいか。このふたつは将来も化石的に残るんだろうな。
もっとも「だ」「である」調だって形容詞の終止形にむりやりつなげたら「あぶないである」となって、なんだかふざけた軍隊ごっこみたいな言い方になってしまう。しかしこういう場合ただ「あぶない」で終わらせてもまったく問題なく、「です」「ます」調が被っているような制約はない。
この「形容詞+です」に違和感を感じない世代が増えてくれば、この表現もより普及していくだろうし、たぶん僕が生きている間にそうなるだろう。若い人たちもやっぱりしっくりこないと感じ続けたら、あるいは「ございます」復権もあるかもしれないけど、まあ可能性は低い。なんにせよ、言葉は人為的に決めたとおりではなく、使いやすいように変化していくものだからね。
話を最初に戻すと、したがって、そういう表現上の窮屈さを理由に「です」「ます」調を却下している人もいるだろうということが言いたかった。長いからもう誰も読んでないだろうけど。
威圧的だとか丁寧な印象だとかは、文末の表現なんかには関係ない。「です」「ます」調で失礼なことを書くやつもいるし、簡潔な「だ」「である」文に清廉さを感じさせる人もいる。
「です」「ます」調の文章が少ないいちばんの理由はと言われれば、そこで想定されているのが基本的にウェブ日記で、日記はプライベートなものだから、ということだと思うけど。それともウェブの連中はどいつもこいつも自分をオーソリティのオーラで飾り立てたくて仕方ない愚かなエゴイストどもだから、とでも? まあ本当はそうなのかもね。
気が向いたら脱線して続くかも。
2008-02-27
Gmail は記号や顔文字を検索したくなった時に困る。雑談。最近雑談が多いね。
いや、ThinkPad X300 がほしいなあってだけなんだけど。久しぶりの「値の張る ThinkPad」だ。
われわれはますますコンピュータに依存するようになり、ディスプレイに一度に表示される情報量は多くなってきているので、もはや B5 ファイルサイズのラップトップのディスプレイでは物理的絶対的な広さが足りなくなってきている、というのがじつはここ数年の持論だったのですよ。そりゃあ 10-12 インチのかわいらしいフットプリントは好きなんだけど、最近のアプリやウェブサイトはそれを許してくれない。
OS が Windows Vista ってこと以外はほぼパーフェクトなんじゃないの? 強いていえば、SD も PCMCIA も省かれたのと、ウルトラナビになっちゃったことか。だけど MacBook Air と比べられるのは、むしろ歓迎って出来だよね。
だけどもう Windows は飽きた(嘆息)。せっかく超かっこいいデザインのラップトップを作ってもさ、中で動くのはどうせ Windows の XP か Vista なんだぜって、デザイナーなんかは不満に思ったりしてないのかな。VAIO の中の人あたりはきっとそんな感じのはず、とか想像するんですけどね……。
2008-02-24
雑談。
ウェブで他人の日記などを読んでると、時として自分がやることになったある仕事(ここでは抽象的なタスクという程度の意味)はこの人がやった方がいいんじゃないかと思うことがある。その仕事に意義があるのを頭でわかってはいるものの、自分のやるべき仕事とは違っているように感じられるというか。端を見れば、別のとある人こそそのことについて関心もあり能力もあるように思われるのだが、その人はその人で本人はさして面白いと思っていないとおぼしきことにかかずらっている。世の中の悲劇(喜劇)のひとつ。もっとも自分がやるべき仕事だと思っている方面にそれだけの能力があるとは限らないという悲劇(喜劇)もあるけれど。
ケーブル受けを作る
ふと思いつきで作っただけであるものの、部屋に来た人からやたら感心された、自作のケーブル受け。これをつける前はデスクの上奥10センチくらいがケーブルに占有されてたから、作ったことで作業スペースがずいぶん広くなりました。
デスクの裏に等間隔でヒートンを取り付けて、単語カードを留めるのなんかに使われている金属製リングを通しただけのもの。ヒートンは5本入りで75円(だったと思う)、リングはひとつ35円(×5)、総額300円もかかってない。
ケーブルが床に触れなくなって、ホコリがたまらなくなったのもよい。写真だとやたらたくさんケーブルが通っているように見えますが、これは長いのを何往復もさせているからです。
九州大学所蔵慶安二年版枕草子
こんなんだぜ。読めるようになるとはとても思えない。
源氏物語電子テキスト
本文に加え、ローマ字版、現代語訳、注釈、さらに校異まである。圧巻。しかも源氏のみならず『紫式部日記』『紫式部集』も。
電子テキストそのものは古典だと読むのに適さないのですが、古語辞典で調べた言葉などでもっと用例を知りたいと思ったときに検索できたらなあ、とよく思っていたのです。
わたしは、インターネットの最大限の利点を活かして、日本の代表的古典文学作品である「源氏物語」を、誰でもが、何時でも、何処からでも、自由に、読むことができて、しかも、使い易く、信頼できる、内容のあるコンテンツを提供したいと念じています。併せて、メールによって利用者との相互交流を大切にしていきたいとも思っています。したがって、わたしはweb上に公開したわたしの著作物に対して、著作権や知的財産権などを主張しようとは考えません。利用者の良識によって、広くいろいろと利用されさ含ざまに活用されることを願っていますので、わたしの著作物に関するダウンロードや加工なども自由です。生物が一つの生命から発生してさまざまな形態に進化を遂げていったように、わたしの作成したコンテンツからさらにより優れたコンテンツが生まれ出てくることを期待しています。一人の人間の力、一個の個体にはおのずと限界があります。このコンテンツがもしこの世に有益なものであれば、これを時空を超えて次の世代へと受け継いで永遠に発展していってもらいたいと願っているのです。(原文まま)
かっこいいなあ。かえってこういった功労者の名こそクレジットされ続けるべきである。© に代わる、利用する側が感謝を表すべくオリジナルの作者を示すのに使うようなマークでもあるといいのかもしれない。謝辞でやれという人もいるだろうけど、クレジットする行為の読み替えとして、あえて戦略的にね。