2008-04-30

では、それ(スプーン、引用者注)が消えたのはどうしてなのだろうか。スプーンはいうまでもなく液体やくずれやすい食べ物を口に運ぶ道具である。器から直接に口へ流し込むことができるなら、必要ないのである。したがって、日本人がお椀に直接くちびるをつけて汁をすするようになったとき、スプーンは捨てられたのではないか。スプーンがなくなると同時に、食器を手に持って持ち上げるようになる。スプーン文化が残っている中国でも韓国でも正式には食器を手に持って食べるのは不作法である。日本のように椀はもちろん皿でも丼でも手に持つのはスプーンがないことと関係していると考えてよいだろう。

もう一つ大切なことは、熱い汁を、やけどしないですするにはスプーンが必要だということである。スプーンで運ぶうちに、わずかだが冷める。スプーンなしに熱い汁をゴクリと飲んだら口のなかは大やけど。ゴクリと飲むかわりに、すする。すするというのは、空気と汁を適当に混ぜ合わせて温度を下げている。空気を混ぜるから音がする。それで日本人は食事中に音をたてることを禁じないし、不作法だと思わない。スプーンがない以上、それは必要なことなのである。

熊倉功夫『日本料理の歴史』吉川弘文館、2007年、pp. 21-22

明日から日曜日まで出かけます。PCは持ってかないのでメールの返事等は遅れます。

2008-04-28

後ろ向きのコメントがいつまでも最新に出てるのもいやなので雑談。

といっても、またどうせだれも喜ばないであろう古文の話でーす。会う人会う人にこういう話をして閉口させてます。ごめんよ。

古典文法の本を読めば読むほどに思い知るのが、本居宣長の先駆性と重要性です。古典の読解で鍵になってくる諸所の問題に関しては、現代の本でもその最初の章あたりでお約束のように「この問題を最初に指摘したのは本居宣長で、云々」というようなくだりを目にすることになる。係り結びしかり、上代特殊仮名遣いしかり。

宣長自身の結論は考証不足だったり、思い込みからくる間違いに終わってたりすることも多いのだけど(しかしずばり正解であることも多い)、とにかく気づいてはいる。なにはともあれそこがすごい。それに宣長が考証不足だったといったって、先行研究の積み重ねがあったからこそ真相がわかったという類で、たいていは「人間の一生じゃそこまでは調べきれないだろう」という限界から来てるようなもんです(日本書紀の述作者問題とか)。彼に統計の知識があったらもっといろいろわかってたんじゃないかと思う。

源氏論などでも、「ここは本居宣長の解釈に従うべきか」なんて記述をしょっちゅう見ます。江戸時代からの研究が引き続き現役で有効になってる分野なんて国語学のほかにはあんまりないんじゃないでしょうか(そもそも外国の研究があんまり意味ないというのはあるけど)。いやあ、やつはすごい。

古文について調べはじめた頃に、係り結びに関することで知って驚いたのは、助詞の「は」「も」を宣長が係り結びに含めた、つまりいまでいう係助詞に分類したという話です。係り結びは、昔学校で覚えさせられたように、主部が「ぞ」だと述部は連体形で終わるとか、「こそ」だと已然形で終わるとかいうあれですが、宣長は「は」「も」は「徒」で終わるとしてこれを係り結びに含めた。「徒」というのは「ただ」と読むんですが、これはいまなら φ(ファイ)とか 0(ゼロ)とかの記号で表したであろう概念です。

追記(2008-05-22)。この「徒」の理解は正しくなかった模様

「は」を使った文は普通には終止形で終わる。しかし「や」「か」「こそ」などと組み合わさった場合にはこれらの係助詞に対応する結びである連体形や已然形で終わるようになる。そして、「は」を持った文は、かならずなんらかの形で述部を持たずにはいられない(これはたとえば、「花ぞ散りぬる」は文として成立するが、「花ぞ」だけでは文にならないのと同様、「春は来ぬ」は文になるが「春は」だけでは文が完結しえないということ)。このような性質から彼は「は」を「徒」を導く係り結びとしたという。……すごくない? こうすることで、主部があって述部があるという日本語の文の類型を「係り結び」という一種類のテーブルで総括できるわけですよ。あたまいい! なんか失礼な話ですが、江戸時代人にこういう形式文法的(?)なロジックが組み立てられたということを知って、「同じホモ・サピエンスなんだから昔の人間ということで馬鹿にしてはいけない」とつくづく思ったのでした。

そんな一方で『源氏物語』で描かれなかった場面を勝手に書いた「手枕」なんて短編を作って弟子に読ませたりしているというオタクっぷりもあったりして、なんか彼にはいまや親近感を感じる。「手枕」は読んでないんですが、古典文法的に破綻してないってだけで、すごいつまんないらしい。学者だったのね。

2008-04-14

今回より始まったオリンピックの新種目から目が離せませんね!

2008-04-19 追記:

アンサイクロペディアのエクストリーム聖火リレーの項目は数日のあいだでぐだぐだになっていた。

アイロニカルなひらめきがほどよい簡潔さでエスプリの効いた記事に仕立てあがっていた、当初の輝きはいまや失われてしまった。焦点はぼやけ、肥大化してジョークとしての切れ味はなまってしまった。

ほんとうに優れたものの多くは削ることによって生み出されるものだが、その点において wiki は弱点を持っているということはもっとよく考えられてもよい。wiki では足すのは簡単だが、さまざまな理由により、削るのは難しい。

2008-04-03

雑談。

PuTTY 使用中いつもタイトルバーに (inactive) と出てるんですが、これってどこかおかしいのだろうか……。

引き続き枕草子を読んでいる。合間合間に、平安時代関連の読みものや、古典文法についての本なども読む。少しは知恵はついてきているのだろうか……。

現代における人気でいえば、清少納言が紫式部に勝っていると思うけど、こと清少納言となると人はなんでオカマバーのママみたいな口調で文章を訳したがるのか、というのは謎です。やはり橋本治の影響が大きいのだとは思うけど……。

しかし、時としてほんとにバカOLのポエムみたいなことを書いててイラッとすることもある。

から-かがみ【唐鏡】〔名〕中国から渡来した上等な鏡。[例]「心ときめきするもの、……――の少しくらき見たる」<枕草子・心ときめきするもの> [訳] 心がドキドキするもの、……(大切な)唐鏡が少し曇っているのを見たの

『ポケット プログレッシブ 全訳古語例解辞典』小学館

なんでおまえ(辞典)までおネエ言葉なんだ! これ誤植か!?

2008-03-31

更新情報

ようやく「さくらPython」を改訂しました。

この人は「ジョエルズ・ブートキャンプ」ていうのを出せば売れると思う

時間つぶしに本屋に寄ったら Joel Spolsky の『BEST SOFTWARE WRITING』が売ってたので買ってしまった。

ウェブで読んだことのある記事も多かったし、これで 3,000円はちょっと高いかなと思ったけど……。でもグレイ・シャーキーという人のウェブ・コミュニティやフレーミングについての話とか、初めて読むのでおもしろそうなのもあった(まだぜんぶ読んでないのです)。

それにしても前からなんとなく感じていたけど、Joel Spolsky と Aaron Swartz って仲悪そうですよね。

スウォーツ(笑)

ところでその Aaron Swartz は「アーロン・スウォーツ」とするべきだと思うのですが。yomoyomo 氏の記事でも「シュワルツ」と書いていたけど、なんでドイツ語風に読む必要が?