2008-05-14

雑談。

Adobe Flash のインストールページでは Google ツールバーのインストールを勧められる。デフォルトでオン。あきらかにアドビは Flash および Reader のインストールベースを「広告媒体」として運用(資産運用という意味の運用)している。

アドビは扱っているソフトウェアはすべて一般的なアプリケーション(ユーティリティ的なシステムのコアな部分に関わるツールではないという意味で)であるにも関わらず、昔からインストーラは変なものばっかり採用しているような印象がある。勝手なストーリーを作っちゃいけないんだけど、営業の人がインストーラを開発する中小ベンダーの甘言にしょっちゅうだまされているんじゃないかとさえ思う。あるいは、アドビが「システムに密着したアプリケーション」になりたがっているように思えるときもある。少なくとも、Flash や Reader のインストールベースで「なにか」をしようと摸索し続けていることは確かだと思う。その「なにか」が何なのかは、アドビ自身もよくわかってなくて、だけどそれが金脈だという確信だけはあって、あきらめきれないでいる。そういういかがわしい雰囲気を、アドビの無料配布物のインストーラからは感じる……。

どうでもいいけど、自分の場合は ATOK にしてからのほうが誤変換は多い印象があるなあ。

今頃気づいたんですが、「好きこそものの上手なれ」って、「こそ」−已然形の係り結びですね。「は」で書き換えたら、「好きはものの上手なり」。(←得意気)

しかしこの調子だと、今年は雑談しかないかもしれないよ。古文読むのに忙しいから。今のペースだと、『枕草子』一冊を読み終えるのにあと一年半近くかかる計算だ。これはよろしくないので、どうにかスピードアップを図らねば(目標は年内)。だけど今でも週三時間近くは割いてますよ……。

うっかり古文書(くずし字)の読み方の入門書を借りてきてしまった。おれはいったいなにになろうというのか……。まあこいつは興味本位でちょろっと寄り道してみただけなので、無理そうならあっさり引き下がるつもりですけど。「やぶそば」の看板が読めたのにはちょっと感激しました。

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2008-05-07

私信。すみません、間違い電話です。

雑談。素人国文学の危険性について。

古文について調べてたら、たいへんにやばいサイトを見つけてしまった。怖いのでリンクはなし。

記紀万葉には、文化系版相対性理論みたいな面があるのかも。デンパが発生しやすいという意味で……。

万葉仮名の暗号っぽさとか(そんな書名の本もありました)、大化の改新以前の歴史ミステリーっぽい要素とかが一因だとは思うのですが、なんとも。自分は政治史は興味ないけど、「書き換えられた○○」とか「××皇子の陰謀」とかそういうのが好きな人は多いし。僕は歴史ミステリーは『日出処の天子』で十分だ。

文学・歴史問わず、奈良時代以前についてとなると、がぜんデンパを帯びた書籍が多くなり百鬼夜行の様相を呈してくるので、本屋や図書館では注意しなければ。しかも、まともな本か、そうでない本かは、たいていの場合タイトルだけでは判別できない。一般向けとなると『〜の謎』みたいな題名にしがちなのは偉い先生もやばい先生も同じなので、著者の素性やじっさいに本を開いての中身を確認しないとたいへんなことになるのです(神代文字とか)。まあたいてい数か所数ページを見ればほぼ見当はつくけれど。

平安時代(中古)の日本語でも、単語や用法の歴史をたどろうとするとけっきょくは万葉集とかの頃の話になってしまう。上代の日本語はおもしろいんですが、いかんせんわからないことが多すぎて、すぐに謎解きごっこになってしまうので素人には危険すぎる。

けっきょく、記紀万葉関連の本については、めんどくさいので「記述されている内容について論じていたらパス」という超ラディカルな態度で選んでます。読むのは、文字を数えてその頻度がどうとか、係り結びがどうとか、表層的なことを論じているもののみという、やや潔癖症気味のポリシー。歴史のほうに興味があったらこうはいかないだろうけど、引き返しどころを決めておかないときわめて危険な領域ということで。

あともちろん「書かれてたのは日本語じゃなかった!」系はパスです。

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2008-04-30

では、それ(スプーン、引用者注)が消えたのはどうしてなのだろうか。スプーンはいうまでもなく液体やくずれやすい食べ物を口に運ぶ道具である。器から直接に口へ流し込むことができるなら、必要ないのである。したがって、日本人がお椀に直接くちびるをつけて汁をすするようになったとき、スプーンは捨てられたのではないか。スプーンがなくなると同時に、食器を手に持って持ち上げるようになる。スプーン文化が残っている中国でも韓国でも正式には食器を手に持って食べるのは不作法である。日本のように椀はもちろん皿でも丼でも手に持つのはスプーンがないことと関係していると考えてよいだろう。

もう一つ大切なことは、熱い汁を、やけどしないですするにはスプーンが必要だということである。スプーンで運ぶうちに、わずかだが冷める。スプーンなしに熱い汁をゴクリと飲んだら口のなかは大やけど。ゴクリと飲むかわりに、すする。すするというのは、空気と汁を適当に混ぜ合わせて温度を下げている。空気を混ぜるから音がする。それで日本人は食事中に音をたてることを禁じないし、不作法だと思わない。スプーンがない以上、それは必要なことなのである。

熊倉功夫『日本料理の歴史』吉川弘文館、2007年、pp. 21-22

明日から日曜日まで出かけます。PCは持ってかないのでメールの返事等は遅れます。

2008-04-28

後ろ向きのコメントがいつまでも最新に出てるのもいやなので雑談。

といっても、またどうせだれも喜ばないであろう古文の話でーす。会う人会う人にこういう話をして閉口させてます。ごめんよ。

古典文法の本を読めば読むほどに思い知るのが、本居宣長の先駆性と重要性です。古典の読解で鍵になってくる諸所の問題に関しては、現代の本でもその最初の章あたりでお約束のように「この問題を最初に指摘したのは本居宣長で、云々」というようなくだりを目にすることになる。係り結びしかり、上代特殊仮名遣いしかり。

宣長自身の結論は考証不足だったり、思い込みからくる間違いに終わってたりすることも多いのだけど(しかしずばり正解であることも多い)、とにかく気づいてはいる。なにはともあれそこがすごい。それに宣長が考証不足だったといったって、先行研究の積み重ねがあったからこそ真相がわかったという類で、たいていは「人間の一生じゃそこまでは調べきれないだろう」という限界から来てるようなもんです(日本書紀の述作者問題とか)。彼に統計の知識があったらもっといろいろわかってたんじゃないかと思う。

源氏論などでも、「ここは本居宣長の解釈に従うべきか」なんて記述をしょっちゅう見ます。江戸時代からの研究が引き続き現役で有効になってる分野なんて国語学のほかにはあんまりないんじゃないでしょうか(そもそも外国の研究があんまり意味ないというのはあるけど)。いやあ、やつはすごい。

古文について調べはじめた頃に、係り結びに関することで知って驚いたのは、助詞の「は」「も」を宣長が係り結びに含めた、つまりいまでいう係助詞に分類したという話です。係り結びは、昔学校で覚えさせられたように、主部が「ぞ」だと述部は連体形で終わるとか、「こそ」だと已然形で終わるとかいうあれですが、宣長は「は」「も」は「徒」で終わるとしてこれを係り結びに含めた。「徒」というのは「ただ」と読むんですが、これはいまなら φ(ファイ)とか 0(ゼロ)とかの記号で表したであろう概念です。

追記(2008-05-22)。この「徒」の理解は正しくなかった模様

「は」を使った文は普通には終止形で終わる。しかし「や」「か」「こそ」などと組み合わさった場合にはこれらの係助詞に対応する結びである連体形や已然形で終わるようになる。そして、「は」を持った文は、かならずなんらかの形で述部を持たずにはいられない(これはたとえば、「花ぞ散りぬる」は文として成立するが、「花ぞ」だけでは文にならないのと同様、「春は来ぬ」は文になるが「春は」だけでは文が完結しえないということ)。このような性質から彼は「は」を「徒」を導く係り結びとしたという。……すごくない? こうすることで、主部があって述部があるという日本語の文の類型を「係り結び」という一種類のテーブルで総括できるわけですよ。あたまいい! なんか失礼な話ですが、江戸時代人にこういう形式文法的(?)なロジックが組み立てられたということを知って、「同じホモ・サピエンスなんだから昔の人間ということで馬鹿にしてはいけない」とつくづく思ったのでした。

そんな一方で『源氏物語』で描かれなかった場面を勝手に書いた「手枕」なんて短編を作って弟子に読ませたりしているというオタクっぷりもあったりして、なんか彼にはいまや親近感を感じる。「手枕」は読んでないんですが、古典文法的に破綻してないってだけで、すごいつまんないらしい。学者だったのね。

2008-04-14

今回より始まったオリンピックの新種目から目が離せませんね!

2008-04-19 追記:

アンサイクロペディアのエクストリーム聖火リレーの項目は数日のあいだでぐだぐだになっていた。

アイロニカルなひらめきがほどよい簡潔さでエスプリの効いた記事に仕立てあがっていた、当初の輝きはいまや失われてしまった。焦点はぼやけ、肥大化してジョークとしての切れ味はなまってしまった。

ほんとうに優れたものの多くは削ることによって生み出されるものだが、その点において wiki は弱点を持っているということはもっとよく考えられてもよい。wiki では足すのは簡単だが、さまざまな理由により、削るのは難しい。