後ろ向きのコメントがいつまでも最新に出てるのもいやなので雑談。
といっても、またどうせだれも喜ばないであろう古文の話でーす。会う人会う人にこういう話をして閉口させてます。ごめんよ。
古典文法の本を読めば読むほどに思い知るのが、本居宣長の先駆性と重要性です。古典の読解で鍵になってくる諸所の問題に関しては、現代の本でもその最初の章あたりでお約束のように「この問題を最初に指摘したのは本居宣長で、云々」というようなくだりを目にすることになる。係り結びしかり、上代特殊仮名遣いしかり。
宣長自身の結論は考証不足だったり、思い込みからくる間違いに終わってたりすることも多いのだけど(しかしずばり正解であることも多い)、とにかく気づいてはいる。なにはともあれそこがすごい。それに宣長が考証不足だったといったって、先行研究の積み重ねがあったからこそ真相がわかったという類で、たいていは「人間の一生じゃそこまでは調べきれないだろう」という限界から来てるようなもんです(日本書紀の述作者問題とか)。彼に統計の知識があったらもっといろいろわかってたんじゃないかと思う。
源氏論などでも、「ここは本居宣長の解釈に従うべきか」なんて記述をしょっちゅう見ます。江戸時代からの研究が引き続き現役で有効になってる分野なんて国語学のほかにはあんまりないんじゃないでしょうか(そもそも外国の研究があんまり意味ないというのはあるけど)。いやあ、やつはすごい。
古文について調べはじめた頃に、係り結びに関することで知って驚いたのは、助詞の「は」「も」を宣長が係り結びに含めた、つまりいまでいう係助詞に分類したという話です。係り結びは、昔学校で覚えさせられたように、主部が「ぞ」だと述部は連体形で終わるとか、「こそ」だと已然形で終わるとかいうあれですが、宣長は「は」「も」は「徒」で終わるとしてこれを係り結びに含めた。「徒」というのは「ただ」と読むんですが、これはいまなら φ(ファイ)とか 0(ゼロ)とかの記号で表したであろう概念です。
追記(2008-05-22)。この「徒」の理解は正しくなかった模様。
「は」を使った文は普通には終止形で終わる。しかし「や」「か」「こそ」などと組み合わさった場合にはこれらの係助詞に対応する結びである連体形や已然形で終わるようになる。そして、「は」を持った文は、かならずなんらかの形で述部を持たずにはいられない(これはたとえば、「花ぞ散りぬる」は文として成立するが、「花ぞ」だけでは文にならないのと同様、「春は来ぬ」は文になるが「春は」だけでは文が完結しえないということ)。このような性質から彼は「は」を「徒」を導く係り結びとしたという。……すごくない? こうすることで、主部があって述部があるという日本語の文の類型を「係り結び」という一種類のテーブルで総括できるわけですよ。あたまいい! なんか失礼な話ですが、江戸時代人にこういう形式文法的(?)なロジックが組み立てられたということを知って、「同じホモ・サピエンスなんだから昔の人間ということで馬鹿にしてはいけない」とつくづく思ったのでした。
そんな一方で『源氏物語』で描かれなかった場面を勝手に書いた「手枕」なんて短編を作って弟子に読ませたりしているというオタクっぷりもあったりして、なんか彼にはいまや親近感を感じる。「手枕」は読んでないんですが、古典文法的に破綻してないってだけで、すごいつまんないらしい。学者だったのね。