最近すこし涼しくなったのでまた元気になってきた。
- GR Digital III ほしい。
- みすず書房からアラン・ムーアのコミックが出る時代。
- 我々は識字能力絶滅後のテクノロジー時代に突入したか? – TidBITS 日本語版 #992/24-Aug-09
- 「ウルヴァリン」、日本でもやるみたい。好きじゃないなら書かなきゃいいのにね、というレビュー。
- DVD ってハイビジョンで収録できるの? 「ハイビジョン」の定義がいまいちよくわかってませんが。
Masaaki Shibata blog
最近すこし涼しくなったのでまた元気になってきた。
こんどはエアコンに喉をやられたみたい。年々夏に弱くなっているような気がする。
各種ドライバ、ユーティリティ類がアップデートされてた。
ワイヤレスWANとワイヤレスLANを同時に使用できるようになりました。
大きなスケールのDPIに対応しました。
ということで、なかなかいいところに改良が入った。これで DPI 設定が高くても設定項目のラベルがはみ出て見えないということはなくなった。WWAN / WLAN が排他じゃなくなったのもうれしいけど、双方つけっぱなしだと、こんどはスタミナに影響が出そうで心配だ。
先日出張でひさしぶりに ThinkPad X60s を持って出かけたんだけど、帰ってきた次の日 type P 持って出かけたら、あまりに軽すぎて持ってくのを忘れたのかと思ってしまった。やはりこの軽さはいい。ネットブック買った知り合いもいるけど、「重くて持ち歩くのやめた」って言ってたし。まあ 1.6 kg のノート PC とか持ち歩いてた自分からすると修行が足りんという感じだけど、「ふつうの人」が気楽に持ち歩けるのは 500 g くらいまでだと思う。自分が使うにしても、ネットブックだと 1 kg 超えるのがふつうだから、それなら ThinkPad の X シリーズのほうがいいや、となってしまう。
ネットブックって、文房具化した PC だよね。今後そういう方向に展開していくのではないか。そうなると type P みたいな形態はいいと思うんだけど。しかし現状のままではまだ使う側がいろいろ設定変えたりしてそういう用途として使えるように自分で仕立てなきゃいけない。
Office Mac 2008 は暗号化の種類として Office 97/2000 互換形式にしか対応していない。
IPA フォントは縦書きの場合、下駄記号(〓)を90度回転させた縦向きの形で表示する。しかし、縦書きでもゲタはふつう横向きで出てくるものである。IPA フォントだけかと思ったら、MS明朝でもJS明朝(ジャストシステムの一太郎に付いてくるフォント)でも縦向きに出てくる。ヒラギノはさすがにちゃんと横向きで出てくる。
インターネットラジオ局、East Village Radio のサイトがリニューアルされていた。リニューアルするすると言ってずいぶん経ってたような気がする。リニューアルするというのを担保に便利な Podcast 機能をストップさせて一年近く放置、それで随分リスナーを失ったんじゃないかと思う。
なんだか資金的にも人的にもとにかくリソースが足りてない雰囲気がむんむんしているネットラジオで、かかってた曲が途中で機械のトラブルで止まったりすることはざらだし、15分以上無音状態が続いたこともあった。ソースが iPod だったこともあった(操作時のあのクリック音でばれてる)。
しかもリニューアルもまだちゃんとできてない。リリースノートによれば、まだ動いていない機能もあるし、アーカイブもユーザー・アカウントのデータもまだ新サイトに移行できてない。「来週やる」って書いてあるけど、ユーザーはもはやだれも当てにしてないかもね。
メールで通知が来てたのでなにかと思ったら、いままでは全ファイルの全履歴を無期限で保管してきていたが、容量的にきびしいので無料ユーザーのファイルの履歴は30日間までに制限するよ、とのこと。リリースノートが見つからないんだけど、フォーラムにはあった(要ログイン)。
正直、ぜんぶ一生アーカイブされるのもどうかと思ってたので、ひと月くらいがちょうどいいや。
アマゾンは、配送業者を複数から指定できるようにしてくれ! できれば避けたい飛脚もいるので……。
Tachyon Technologies という会社のオンライン採用テスト。別のことを調べていて偶然見つけた。採用希望者はこの同社求人ページから自分のプロフィールをフォームに書いて送信できるんだけど、それには掲載されているプログラミングに関する 3 つの問題の答えとなるコードも添えなくてはならない。最低限の人材の選別はオンラインで済ませてしまおう、と。
入社する気はなくても、プログラミングのパズルとしてどの問題もおもしろい。頭の体操が好きな人はぜひ挑戦してみよう。答えは Python, C++, Scheme のどれかで書けばよい。Python でやるです。
1 問目は、座標上の 2 点、(x1, y1), (x2, y2) を結ぶ直線を引いたとき、その直線が通るグリッドの数を返すようなプログラムを書け、というもの。正方形の中を通らず、頂点や辺に接するだけのものは数えない。
あとはページに挙げられている例を見れば、問われていることについてはわかると思う。さて、この例での出力結果は、自分の関数のテストとして使える。
# count_intersections.py def count_intersections(x1, y1, x2, y2): # problem 1 # http://tachyon.in/jobs/count-intersections/index.html """ >>> count_intersections(1, 1, 6, 6) 5 >>> count_intersections(1, 1, 7, 6) 10 >>> count_intersections(1, 1, 7, 5) 8 >>> count_intersections(5, 6, 500, 6) 0 >>> count_intersections(1, 200, 180, 2) 376 >>> count_intersections(1, 10000, 9999, 173) 19824 """ (... 処理 ...) return count_squares if __name__ == '__main__': import doctest doctest.testmod()
こんなふうにしておけば、スクリプトを実行するだけで doctest モジュールによるテストが実行される。答えが合ってればなにも出力されない。間違ってると、
C:¥...>python count_intersections.py ********************************************************************** File "C:¥...¥count_intersections.py", line 7, in __main__.count_intersections Failed example: count_intersections(1, 1, 6, 6) Expected: 5 Got: 6
こんなふうなエラーがずらずらと出てくる。上の例は 5 を期待してたのに 6 が返ってきたということ。
まあ正確にはコマンドラインで引数を受け取るプログラムを書け、なんだけど、そのへんは関数がちゃんとできれば難しいとこじゃない。
ウェブに答案を書いてしまうと、なんでもググって解決するような人を手助けすることになってしまう。Tachyon Technologies の人に迷惑かかるからそれはやめよう。そもそも自分の答えが合ってるとは限らないし。できた人はメールで答案交換しましょ。
39度近くの熱がようやく下がったかと思ったら三日続けて鼻血が出た。そしてそれが収まったその日から、右肩が上がらない。なんだこりゃ。いったいどうなってしまうのか。
肩が上がらないのはほんとにつらくて、コーヒーを飲むとか電灯を点けるとかマウスを使おうとするだけでも、うっかりしていると激痛が走る。もう四、五日そういう状態なのだけど、これちゃんと治るんだろうね……。左右どちらの手でもマウスを操作できる技能を身につけててよかった。
MJ 死去のニュースが流れて以降、Last.fm ユーザーが聴いた彼の曲の数の推移を表すグラフ。比較として入っているのはプリンス(赤)とジャクソン・ファイブ(緑)。
『「甘え」の構造』という本はおもしろいのだけど、今の人でこの本を読んだことがない人はほぼ間違いなくこの書名について誤解をすると思うので、そのことについて同書の増補普及版に収録された「『甘え』今昔」という随筆から一節を引こう。
以上のべたことは従来の日本人ならばなるほどそうかもしれないとすぐうなずいてくれたであろう。というのは、「甘え」の心理自体、暗黙の中に非言語的に理解されるものであったからだ。実際、誰も「私は甘えます」と言って甘えることはしなかった。その点「甘え」は幼児心理に直結する。しかしそれは特に幼児的心理なのではなく、老若男女の別なく人間一般に共通する心理として理解されていたのである。しかしこの理解が近年急速に失われてきたのではなかろうか。今や「甘え」といえば人々は一方的な「甘やかし」かひとりよがりの「甘ったれ」のことしか考えなくなったのだ。実は私自身今更驚いたのだが、この「甘やかし」も「甘ったれ」も本書の第二章の冒頭で「甘え」の語彙を論じた際に言及されてはいない。ということは本書を書いた時点で私はこの二語の存在に思いもつかなかったということだ。これら二語は私の思い描く「甘え」的世界に属しないものとして考慮外だったのだ。しかし今やこの二語が「甘え」を代表するものになったとすれば、そのことに言及しない本書は現代人の感性にもはや訴えないということにもなりかねまい。
(土居健郎『「甘え」の構造』増補普及版、p. 3、弘文堂)
『「甘え」の構造』の出版は1971年、上記に引用した「『甘え』今昔」が書かれたのは2007年だ。「甘え」についての論考と聞いて頭の中に浮かんだのが上にいう「甘やかし」「甘ったれ」のことだったという人は、同書に論じられている「甘え」には失われた概念を再発見するような感覚を覚えることと思う。