39度近くの熱がようやく下がったかと思ったら三日続けて鼻血が出た。そしてそれが収まったその日から、右肩が上がらない。なんだこりゃ。いったいどうなってしまうのか。
肩が上がらないのはほんとにつらくて、コーヒーを飲むとか電灯を点けるとかマウスを使おうとするだけでも、うっかりしていると激痛が走る。もう四、五日そういう状態なのだけど、これちゃんと治るんだろうね……。左右どちらの手でもマウスを操作できる技能を身につけててよかった。
MJ 死去の日の Last.fm
MJ 死去のニュースが流れて以降、Last.fm ユーザーが聴いた彼の曲の数の推移を表すグラフ。比較として入っているのはプリンス(赤)とジャクソン・ファイブ(緑)。
土居健郎死去
『「甘え」の構造』という本はおもしろいのだけど、今の人でこの本を読んだことがない人はほぼ間違いなくこの書名について誤解をすると思うので、そのことについて同書の増補普及版に収録された「『甘え』今昔」という随筆から一節を引こう。
以上のべたことは従来の日本人ならばなるほどそうかもしれないとすぐうなずいてくれたであろう。というのは、「甘え」の心理自体、暗黙の中に非言語的に理解されるものであったからだ。実際、誰も「私は甘えます」と言って甘えることはしなかった。その点「甘え」は幼児心理に直結する。しかしそれは特に幼児的心理なのではなく、老若男女の別なく人間一般に共通する心理として理解されていたのである。しかしこの理解が近年急速に失われてきたのではなかろうか。今や「甘え」といえば人々は一方的な「甘やかし」かひとりよがりの「甘ったれ」のことしか考えなくなったのだ。実は私自身今更驚いたのだが、この「甘やかし」も「甘ったれ」も本書の第二章の冒頭で「甘え」の語彙を論じた際に言及されてはいない。ということは本書を書いた時点で私はこの二語の存在に思いもつかなかったということだ。これら二語は私の思い描く「甘え」的世界に属しないものとして考慮外だったのだ。しかし今やこの二語が「甘え」を代表するものになったとすれば、そのことに言及しない本書は現代人の感性にもはや訴えないということにもなりかねまい。
(土居健郎『「甘え」の構造』増補普及版、p. 3、弘文堂)
『「甘え」の構造』の出版は1971年、上記に引用した「『甘え』今昔」が書かれたのは2007年だ。「甘え」についての論考と聞いて頭の中に浮かんだのが上にいう「甘やかし」「甘ったれ」のことだったという人は、同書に論じられている「甘え」には失われた概念を再発見するような感覚を覚えることと思う。