喫茶店で隣の客が「ネットワーク」で「クラスタ」云々と言っていたら、計算機の話だと思うでしょ?
ところがこれが水の話だったのでした。水商売。
の
ねず-なき【鼠鳴き】〔名〕ネズミの鳴き声に似た声を出すこと。また、その声。[例]「雀の子の、――するに踊り来る」<枕草子・うつくしきもの> [訳](かわいらしいものは)雀の子が、(人が)ネズミの鳴き真似をすると跳ねながら来るの。
『ポケットプログレッシブ全訳古語例解辞典』小学館
おまえわざとやってるだろう。(前科)
たぶん、この「の」って「もの」という(「この鉛筆はぼくのだ」というのと同じ)意味で使ってるんでしょうね。まあ野暮ったいことはいいっこなしか。
この辞典は用例が枕草子にやたら偏っていて、枕草子を読みながら語義を引いていると、読んでいるそのものずばりの箇所が用例として訳付きで挙げられてるのに出くわすことが多い(あんまり嬉しくはない)。他の古語辞典だと源氏物語の用例が多いのがふつうなんですが。編者の専門が枕草子なんでしょうかね。
いもうとせうと
清少納言は生涯で三度、結婚と離別を繰り返しているのですが、最初の夫が橘則光(たちばなののりみつ)という人です。で、少納言はこの人とは離婚後もけっこう仲がよかったらしく、分かれた後もお互いに「いもうと(妹)」「せうと(兄)」などと呼び合っていたらしい(八二段)。しかもこの恥ずかしいあだ名は公知だったらしく、則光は宮中の他の殿上人からも(役職名ではなくて)、せうと、せうと、と呼ばれていたそうです。
ふーん、と思うでしょ。で、僕はこれを読んだときに、昔 Amazon.co.jp がおすすめしてきたやつのことを思い出してひらめいたのです。「あっ、これってそれで思いついたな!」と。
もちろん清少納言の明るい性格だけでもこういうマンガを作る下地はあるといえるんでしょうが、もし僕が当代の若手漫画家だったら、このエピソードを聞いた瞬間に「これはいける!」と思ったはず。ちなみに読んでないのでおもしろいかどうかは知りません。
漢文
古典を読んでると、やはり漢文の知識が必要になってくる。弱った。自慢じゃないけど僕は漢字漢文がほんと苦手なのよね。西洋文明至上主義者だったからね、ははは。清少納言は漢籍が得意でうらやましいなあ、とか思うわけですが、ちょっとくらいは漢文も知らないといけないような気がしてくる。とりあえず原田種成『漢文のすゝめ』という本を手にしてみましたが、この先生はすごいすね。
漢文一筋の人生を送って八十歳を超えた今、漢文を軽視する傾向が強い現状を見て日本の学術文化および日本語の将来について心配することが多い。
日本人は日本語で考える。だから語彙が貧弱であると、思考力も貧困になる。日本語の語彙を豊かにするには『源氏物語』や『枕草子』の類からは得られない(原文ママ)。漢文こそ日本語の語彙の宝庫なのである。
原田種成『漢文のすゝめ』新潮選書、1992年、p. 223
主張はよくある話なのでどうでもいいですが、これがおもしろいのは国文学者のコンテキストだと漢語と外来語こそが日本語を不自由なものにしてきたという認識に持っていきそうな話なのに(じっさいにそんな単純なこという人はいないと思いますが)、まったく反対の解釈から、しかも同じ結論を導き出しているというとこです。
日本人の仲人は何時ごろから始まったか、『源氏物語』には仲人など全くなく、中には強姦が四件ほどある。
同書、p. 227
なにこの言及の仕方。
しかしここまでの堅物だとかえって信頼感が沸いてきます。この人は『大漢和辞典』の執筆に携わったたいへん偉い人なのです。
と、偉い人に感化されてひとつ白居易のやつでも読むかと思ったのですが、どうもしっくりこない。平安時代の人たちはほんとにこれをいいと思ったのかな。人気あったんですよね。なんかとりつく島がないというかなんというか。鑑賞の仕方がわからん。ムードだけじゃん? とか言うと、怒られるのかな。
オレオレ箴言
141 われわれはよく、自分は少しも退屈しないと自慢する。そしてすっかりつけ上がっているから、自分が一座をうんざりさせる人間であることを認めようとはしないのである。
二宮フサ訳『ラ・ロシュフコー箴言集』岩波文庫
あ、おれおれ、おれだけど!
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