2008-06-12

赤ちゃんは「じじ」「ばば」から「じいじ」「ばあば」というHLの構造は作り出すが、「じじい」「ばばあ」というLHの構造は作らない。「じじい」「ばばあ」は子供心を失った大人の言葉であり、また大人の世界でも非常に悪いニュアンスを持っている。

窪薗晴夫『アクセントの法則』、p. 51、2006年、岩波書店

なんか笑った。

本居宣長のいう「徒」について 完結編

あー、うやむやにしておくのは気持ち悪かったので、『詞の玉緒』借りてきた。ざっと流し読み。すると、「徒とは こそ などいふ辭のなきを今かりにかくいふ也」とある。この説明や、あげられている例を見る限り、「徒」というのはやはり係助詞を含まずに用言で終わる文、ということのようです。

「徒」の例としてあげられている歌(ちなみに宣長はこういう歌の用例のことを「證歌(証歌)」と呼んでいる)。

おちたきつ瀧のみなかみ年つもり老にけらしな || 黒きすぢな (古今十七)

あなこひ || 今も見てしが山がつのかきほに咲るやまと撫子 (古今十四)

かきくらす心のやみにまどひにき || 夢うつゝとは世人さだめよ (古今十三)

『詞の玉緒』は分量のほとんどが証歌すなわち用例の提示にあてられている。過去に用例がある、というのをひじょうに重視していたことがわかります。「全集」の解題によれば、半紙を二つ折りにして一面に33行ずつ、古典文学作品から歌だけをカタカナにして書き抜いて作った自筆資料が(冊子の形で残っているものだけで12冊、さらに綴じてないものが100枚以上)残っている。写真を見る限り、係助詞別に整理していたようです。前も書いたような気がしますが、ああ、こういう人にパソコンがあったらねえ。

ただし、宣長は用言の語尾の終わりかたに注目しているだけで、彼の中にはまだ「品詞」という概念が確立されてないという点には注意しなければいけない。だから、動詞の活用形とそれに続く助動詞とを厳密に区別できていない。解題に指摘されているように、「流るる」という語と「頼まるる」という句を「る・るる・るれ」の例としてひとくくりに扱っている。今日では「流るる」は動詞「流る」の連体形、「頼まるる」は、動詞「頼む」の未然形+助動詞「る」の連体形、と理解されるものです。そして、どうも「ぞ」「や」などの係り結びの結びと、名詞の前に「続く形」(「流るる河」の「流るる」など)が同じもの、つまり連体形という活用形、であるとはわかっていなかったんじゃないかという印象も受ける。

古文の構文

品詞という概念においては、同時代の国文学者、富士谷成章(ふじたになりあきら)のほうが先んじていた、と。『あゆひ抄』。読んでませんが。

しかし、現在の文法が品詞に重きを置きすぎて、いわゆる「文型」をまったく提示できていないのにたいして、宣長の記述には文型の研究といってもいいようなものの萌芽が見られるようにも思える。英語の5文型とか、フランス語の6文型といったようなものは、語学をする者にとってはひじょうに役に立つものですが、日本語には古文にも現代文にもそういうものが、まだない(よね!?)。宣長は文中で句をまたぐ「係り」と「結び」に注目していたので、必然的に文全体に目がいったのではないかと思う。

たとえば「は」の解説では、体言で結ぶ「は」(「笠うめの花笠」)や、「…を…は…」の類例(「山のかすみあはれと見よ」)などを集めて考察しています。「ましかば」の後には「まし」で終わる句が来るとか、入れ子になった係り結びは間に「と」が入っているとか(要は引用の「と」です)、文の構造についての観察は多い。

宣長に限らず、国学での係り結びの研究はそのまま続いていたらある種の文型論までいってたんじゃないかという予感もするのです。

それではなぜそうならなかったのか、というと、明治時代に西洋の文法学を盲目的に取り込んで、それまでの研究を断絶させてしまったのが一因としてあると思われる。

『国語学史』という本に、明治時代の文法論の本の目次が紹介されてるんですが、これがなかなかすごいです。

明治維新以降、西洋文典の日本語への適用による日本文法論が現れたが、中でも詳しいものが田中義廉(よしかど)の『小学日本文典』(明治八年刊)である。文法論全体の構成は、[七品詞の名目][名詞、名詞の性、名詞の種類、集合名詞、名詞の格][形容詞、形容詞の詞尾、形容詞の名詞、数形容詞][代名詞、人代名詞、疑問代名詞、復帰代名詞、指示代名詞、不定代名詞][動詞、動詞の種類、動詞の活用、分詞、助動詞、動詞の法、動詞の時限、配合の例、動詞の定音、集合動詞、転成動詞][副詞、副詞の品類、転成の副詞][接続詞、第一種の接続詞、第二種の接続詞、接続詞の品類][習煉]である。品詞中心であり、西洋文典の構成にならったものと言える。品詞についての論の内容も、「名詞の格」「名詞の性」「集合名詞」「分詞」「復帰代名詞」など、いかにも西洋文典の直訳的である。日本人による研究で重視された「係りと結び」については全く論じられていない。

馬渕和夫・出雲朝子『国語学史 日本人の言語研究の歴史』、pp. 94-95、1999年、笠間書院

「名詞の性」なんて章が日本語についての本でそもそも立てられるのかと、これには驚愕した。いったい何が書いてあるんだろう。西欧コンプレックスここに極まれりです。しかしローマ字で国際化とかサマータイムとか言ってる連中がいる限り、いまだわれわれもこれを笑い飛ばすことはできませんぜ。

僕は高校時代の古典の授業はおもしろいと思った記憶がまったくないんですが、ひとつにはそのあまりにも場当たり的な読み進め方に学問としての魅力を感じなかったというのが理由としてあると思う。時代も伊勢物語やったかと思えば奥の細道やってみたりと、あっちこっちに飛ぶ。そこまで時代が隔たっていれば、文法的にはまるで違ってくるというのに、たんに「古い言葉は今とは違う」という程度の印象しか抱かせないまま辞書を引かせて、品詞分解ばっかりさせている。「文法が違う」というのを「単語が違う」というのと同列に扱っているのはあんまりだと、今なら思う。そして構文的なことは反語も係り結びもぜんぶ「強調」で片付ける。これはよくないよ。国語の先生は文法が嫌いだから? しかし、文法を理解せずに鑑賞をすることはできませんよね。けっきょくのところは、日本語というよりは、たんに教養を教えたかっただけだったんでしょう。

本文を読む前に、解読のガイドラインとしてその時代ごとの特徴的な構文を解説するなどしてくれていれば、少しは古典の授業もインテリジェントな営みに思えたような気がする。なんか、印象が作業的だったんですよね。

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