2007-08-11

雑談続く。

ウェブページの品質(を誰も気にしないこと)について

ウェブページの品質について、以前からいろいろ考えるのですが、最近こんな記事を読みました。

それからこんな話もあります。

ウィキペディアの大原則は「検証可能性」「出典を明記」ですが、ウィキペディアのコンテンツでこれを守れているものはひじょうに少ない。

ウィキペディア、ウェブログ、ソーシャルブックマークの世界では、人びとはコンテンツの品質について、そんなのどうでもいいと考えているんじゃないかと思えてしまうこともあります。ある程度までは実際にそうなのかもしれません。というのは、これらはいずれも「自分のしたいことをやりたいと思った分だけやる」という性質のしろもので(この性質についてなにかいい名前を付けられないかと思うんですが……)、あくまで個人的な活動だということになっているから(ウィキペディアは個人的とはちょっと違うけど、「成果を評価されない」という点では共通している)。

ウェブというのはアマチュアリズムと結び付けて語られることが多いものです。ウィキペディアしかり、YouTube しかり。そして、ウェブのコンテンツに対する否定的な評価もこのアマチュアリズムを前提としていることが多い。ウィキペディア批判しかり、YouTube 批判しかり。

たとえば誰かが、ウィキペディアの項目からひどいやつを適当に引っ張ってきて、「こんなものをあてにするのか?」と問いかける。そうすると、対立意見として何々の項目はブリタニカのそれを凌ぐほどの出来であるなどというのが出てきたりする。喧喧囂囂。

そうしてやがて「ノイズを許容するか」あるいは「S/N 比が高いことを容認するか」という、ある種の寛容さの議論へと発展する。寛容さとは自由を認めることであり、ウェブとは本質的に自由であるものだから――それになんといっても、自由は「いいこと」だから――、ふつう議論は「ウィキペディア礼賛派」が勝利を収めて終わる。というか、最初の問いかけ(品質に対する疑念)は封殺される。万歳、自由は守られた! そしてウェブはこれまでそうであったがままであり続ける。

こんなことをいつまで続けるのかと思う。品質への批判を寛容さの議論にすりかえて、問いかけそのものを否認している。Aaron Swartz が「編集の行き届いた中身のない百科事典よりは、まずい編集でも内容の充実してる百科事典のほうがずっといい」と言ってはばからないのは、この選択の背後に自由についての価値判断が絡んでいるということを彼が無意識に(あるいは意識的に)察知しているからだ。「同じ程度の内容なら、編集が行き届いている百科事典のほうがいい」とは、誰もあえては言わない――当たり前だから。

ウェブログでは、たくさんの人が「素人の意見だから、批判は勘弁」みたいな言い訳をしている。しかしこれってへんな言いかたで、素人の意見なら間違っている可能性は高いんだから、間違いは訂正してもらったほうがいいはずなのです。これって本音は「素人だから、正しいといえるとこまで議論を追求するのに付き合う根性はありませんので、批判は勘弁」ってことですよね。「今日はブログにはカフェテリアであった愉快な事件のことを書かなきゃいけないんだから、昨日の床屋政談の矛盾点を蒸し返されたって困るよ!」というわけで。

ウィキペディアについての議論の展開のように、ブログ、ソーシャルブックマーク(そのほかソーシャルなんちゃらと名の付くものすべて)の品質について問いかけるのは野暮だということになるのかもしれない。いまはこうしたクズの寄せ集めに横文字の立派な名前まで付いている。「コンシューマ・ジェネレーテッド・メディア」!

書籍には編集という作業があって、これがその本の最低限の品質を保証している(最近は本もひどい品質のがあったりするけど)。ところがウェブにはほとんど編集嫌悪といってもいいほどの、アマチュアリズムへの過剰な信頼があるように思える。いやアマチュアリズムがいかんということではなくて、
編集という作業を通せばコンテンツの質は上がるという当たり前のことをもっと積極的に認めてもいいのではないかということ。ウェブの編集嫌悪については、ひとつにはデザイナーに対するハッカーたちの態度と似たような構図もあるんじゃないかと思います。

献身的なインターフェース・デザイナーがいたとしても、かれらは仕事であずかっているほどの敬意は払ってもらえない。というのはかれらはまさに献身的なデザイナーなのであって、かれらのサジェスチョンを実装するパッチを書いてくれるわけじゃないからだ

……長くなってしまった。これについての考えはきれいに整理がついてなくて、まだ自分のなかで混沌としているのです。とりあえずこのへんにして、またそのうち残りを書くことにします。不完全なコンテンツがウェブにこうしてまたひとつ……。

2007-08-10

雑談。

これを書きながら、はっきりと自覚したのです。スマートフォンが、スマートフォントとかのたまう方々が、好きでないのだと。これはスマートフォンを礼賛する連中が、ハンドヘルドは時代遅れだとよく考えもせずに罵っていたことに起因しているのだと思う。

スマートフォンについて

かつて Palm が隆盛だった頃にその広告を見てなるほどと感心したことがあって、それはかれらがハンドヘルド(この言葉ももう死語か)をあくまで時間の節約になるデバイスとして売っているということでした。たくさんの連絡先から目的の電話番号を一瞬で探せますとか、スケジュールをすばやく確認できますとか。だから、Palm の広告の多くが、「Palm を使っているところ」じゃなくて、「使い終わったところ」や「仕事が片付いたところ」の映像を使っていました。

このことはすごく印象に残ってて、それ以来ガジェットの広告を目にしたときに、それを批評する自分なりのひとつの柱になってしまった。極論にしていうと、つまり「夢中になって使っているイメージ」を広告に使うデジタル製品はオモチャだということです。例外はゲームで、これはもちろん夢中になっているところを使ってもよろしい。

Palm の標準のアプリケーションも、とにかく時間を無駄にしないようにできていた。予定やメモを追加する時にはわざわざ「新規作成」をタップしたりする必要はない、アプリでいきなり文字を書き始めれば、それが自動的に新規の予定なりメモなりとして追加される(そして人類の月面着陸同様、もはやいまどきの若造に言っても信じてもらえないんだろうけど、Palm は手で書くよりも速くスタイラスで入力できたのじゃよ)。そういうショートカットが Palmware の真髄でした。つまり、それを使っている時間が短いことが、その出来のよいことの証になっていたわけです。これは「使える GUI デザイン」の原則にも適った発想。

この Palm のデザインが、それまでどのデジタルデバイスも果たせずにいた、「役に立つ電子手帳もある」という通念を流通させることに成功した(そして Microsoft をしてこの分野に参入しようと真面目に考えさせた)大きな要因だと思う。スマートフォンの理想というのは、歴史的にはこのハンドヘルドの成功体験を前提にしている。

まあ個人的には、使いやすくて便利な携帯電話ができたらナイスだということ自体には反対しないけど。

だけどハンドヘルドからスマートフォンへというのは、べつに進化とか発展とかではなくて、たんに携帯電話に高度なプロセッサが載っていろいろできるようになったから、「もしかしてハンドヘルドが担ってたこともできるんじゃないの!?」と思いあがるようになったというだけだと思う。そして「実際にはハンドヘルドには何ができていたのか」についてまったく省みていない。というのも、Palm は登場時点も、その後のリリースでも、当時の最速とは程遠い、遅いプロセッサを載せていたからです。ハンドヘルドの成功体験は、テクノロジーの成功体験ではなくてデザインの成功体験だったのに、スマートフォンを持ち上げてた人びとはそれに気づいていない(ように見える)。

そうこうしているうちに別の「デザインによる成功体験」の大御所がやってきて、こんどはみなさまそちらに夢中になってます。しかしこの2007年の成功体験は、ユーザーを「没入」させる体験で、Palm ハンドヘルドの思想とは対極に位置したものですよね。スクリーンを指でつついてズームさせたりスクロールさせたりするのに夢中になってる面々には悪いけど、iPhone の熱狂は人びとを白痴化させてると思う。

iPhone はバカ売れしたようだけど、スマートフォンの幻想を信じている人たちはこれもまた「スマートフォンの歴史」に追記するのだろう。そしてテクノロジーの進歩がありもしないものを進化させているという思い込みをよりいっそう強くするわけだ。Palm と Apple がそれぞれまともなデザインのデバイスを作ったという別々の出来事を己が成功譚にしたてあげる妄想力万歳ときたもんだ。

結論。

  • スマートフォンという概念は幻想。
  • よいデザインのものが売れてるだけ。

日本の携帯電話を「スマートフォン並み」ということがあるけど、それについても異論がある。まあスマートフォン自体が妄想なのですが。これはこれでまたそのうち書くやも。

2007-07-31

雑談。

先日の書いておきたいこと追加。

  • スマートフォンについて。
  • 掃除機について。

イメージコード

コードをコピペするのはよろしくないとして、手で打たせることで体で覚えさせようという教育的配慮、らしい。

どうだろう。個人的には、ユーザーを子供扱いしている気もする。最近流行ってるらしい大人の漢字ドリルみたいなものか。モダンアートっぽいコードはちょっとおもしろいけど。

2007-07-25

雑談。

いくつか書いておきたいことがあるのですが、まだ書けていないのです。思うところあって、とりあえずここに箇条書きにしておきます。予告というわけではないので、結果として書かなかったということになるかもしれませんが。

  • ウェブページの品質について――ずっと考えていたことなのですが、たまたまウェブページの信頼性についての意見を最近ぽつぽつと続けて目にしたので。
  • Wiki の問題なところについて――ウェブの品質についてと関連した話。
  • オタクについて――僕は自分をオタクと認識しているので、オタクについて擁護する立場をとるべきではないかと、そういう話になるたびに思うのですが嗚呼すれ違いという話。
  • 「知っていること」とはどこまでアドバンテージかについて――もったいぶらずに教えてくれりゃあいいのにという話。

最後のは箇条書きでほぼすべて語ってしまったような感じですが。話の種にもなるかもしれないので、オフ会の時までにひとつかふたつは書いておきたいけど、最近忙しくなってきたのでできるかどうか……。出張多めの予感なので新幹線でできるかもしれない。

2007-07-23

雑談。

「トランスフォーマー」見たいです。あなたは?(ここまで挨拶) 筋とかは(監督がアレなので)期待してなくて、ロボット。テレビアニメを見てたのはたしか小学校低学年の頃だったと思うけど、好きだった。これとか「ナイトライダー」とか、そのころから洋ものドラマが好きだった。そういう元少年ばっかり見に行くんだろうな。

「トランスフォーマー」は、しばらくしたら日本製アニメテイストのシリーズ(ヘッドマスターズ)に変わってしまって、そしたら見なくなった(笑)。子供心に洋ものテイストが抜けたのを察知して、激しく違和感を抱いたのを覚えてます。ということは、ロボットとかストーリーとかじゃなくて、おもに海外もののそういうなにかを期待して見ていたわけで、そのころからひねくれた視聴者だったようです。でも人によってなにを面白いと思うかは自由だからね。

Python のデフォルト引数での注意点について。

こんなコードがあったとします。

def foo(d={}, **kwds):
    d.update(kwds)
    print d

foo(a=1, b=2)
foo(x=1, y=2)

これで表示される二行の出力が予測できますか? これはこのようになる。

{'a': 1, 'b': 2}
{'a': 1, 'y': 2, 'b': 2, 'x': 1}

ちゃんと予測できた人はこの先は読む必要はありません。かたや二行目が予想外だった人は要注意。

しかしこれを次のように書き改めてみれば、勘違いする人はいないはず。

_d = {}
def foo(d=_d, **kwds):
    d.update(kwds)
    print d

foo(a=1, b=2)
foo(x=1, y=2)

このように、デフォルト引数の値としてインスタンスを渡していると思わぬ結果にはまることがある。

この場合なら、一例として次のようにすればよい。

def foo(d=None, **kwds):
    if d:
        d = dict(d)
    else:
        d = {}
    d.update(kwds)
    print d

foo(a=1, b=2)
foo(x=1, y=2)

あるいは格好つけるとこうか。

def foo(d=None, **kwds):
    d = dict(d or {}, **kwds)
    print d

foo(a=1, b=2)
foo(x=1, y=2)

実行結果。

{'a': 1, 'b': 2}
{'y': 2, 'x': 1}