2008-08-28

冷やしてある桃を食べる暇がない。

五言 奉西海道節度使之作    五言 西海道節度使を奉ずるの作 藤原宇合(ふじわらのうまかい)
往歳東山役   往歳 東山の役
今年西海行   今年 西海の行
行人一生裏   行人 一生の裏《うち》
幾度倦浜辺   幾度 浜辺に倦《う》む

(中略)宇合がこのような詩をうたった背景には、中国の漢詩の伝統として、「不遇」すなわち自分が正当に遇せられていないことをテーマとする習慣があげられます。

さきに志を述べるのが詩であるといいました。自分がいかに不遇であるかとそれを訴えることは、自分の志を訴えることです。中国では、白楽天も江州や越州に配流されました。中央で自分の才能を認めてくれなくて地方に流されてしまう、だから、おれは不遇であると詩で訴える。

ところが日本人は、不遇を訴えないのです。黙ってビールを飲んでいる。中国では「おれは不遇である」という。「不遇である」ということはすなわち、「自分は優れた才能を持っている、それを評価してくれ!」と訴えていることです。まさにこれは志を訴えているのです。時には朝廷に直言や諫言まですることもあります。

ですから中国で詩人であるということは、ばあいによっては死刑に処せられることを覚悟しなければならないほどのことなのです。実際、中国ではおびただしい数の詩人が死刑になっています。日本人のように、なにかいっているだけでインテリだなどというのと違うのです。中国人は、命を懸けて発言しています。死を覚悟したうえで志を述べるという伝統があってこそ、不遇を訴える詩が成立します。

宇合の詩はこうした中国の流れのなかにあるのですが、やや情のほうに寄っています。「自分はこんな辺兵ばかりで、ほんとうに嫌だ」という気持ちを訴えています。しかし、これは日本人独特の情の訴えかたではなくて、中国のパターンにしたがって訴えているということです。

おもしろいことに、宇合が西海道の節度使に任命されたその同じときに、高橋虫麻呂が宇合に贈った和歌が『万葉集』におさめられています。「不遇」の漢詩の伝統を知ったうえでつくったと考えられる和歌です。

千万《ちよろず》の 戦《いくさ》なりとも 言挙《ことあ》げせず 取りて来ぬべき 男《おのこ》とそ思ふ (巻六・九七二)

相手が千万の敵であろうとも、あなたは愚痴なんかこぼさないで殺してしまう、そういう男性だと思いますよと、虫麻呂は宇合を勇気づけているのです。ここには不遇を悲しむテーマはまったくありません。これは和歌的に発想しているのです。

中西進『日本文学と漢詩』、2004年、岩波書店、pp. 21-22

WZ6

2ちゃんねるではWZ6のプレビュー版はα版ということになっているらしいのがおもしろい。どこにもそんなこと書いてないのにね。ダウンロードすると書いてあるのかな。品質から推測してそういうことになっているのだとしたらちょっと悲しいものがある。

思いつき

ウェブでの露出を辞めるのを出家と呼ぶのはどうか。

だんだん発想がオリエンタルになってきてる……。

Watchmen

映画になるということで、原作を随分前に読んだのだった。なんとなく古文の話にまぎれて書けなかったけど。日本語訳があればそれでいいつもりだったのに、日本語版は絶版で古本には法外な値段がついていたので、しかたなく英語で。

さらっとしか読んでないんだけど、なんか変な話だ。こういう話にしておいて、全身タイツのヒーローは出すというのが不思議で。そういう、コミックの枠組みに対する挑戦なのかな。筋はネタバレしないほうがいい感じなので各自で見てくださいな。正直ちゃんと読めてないような気がするけど、Watchmen は終わり方があっけなくて、僕は「V for Vendetta」のほうが好きだな。でもこれ向こうではほとんど伝説的作品みたいな扱いのようなのよね。

アラン・ムーアという人の作品は、いつも望まれて映画化されるがいつも挫折する。映画の制作そのものが頓挫するか、できあがった作品が原作とはかけ離れたものになるか。そういうことで、彼は自分の作品の映画化ものに、自分の名前を入れないでくれと言っているそうだ。V for Vendetta は映画も見に行ったんだけど、最後はあんまりなおめでたぶりで終わる作品になってしまっていた。あれは怒るよ。今回はどうなのかな。もっとも V 同様、動くロールシャッハ(キャラクター名)がかっこいいところを見に行くというだけでも僕はいいんだ。

自信を持って断言できるが、映画は(まあコミックもだけど)日本では受けない。

人に話すと「おもしろそうだね」と(付き合いで)言ってくれるが、実際には誰も自分ではやってみようとしないようなめんどくさい趣味を多く持っているわたくしですが、海外のコミックを読むのもそのひとつかもしれない。趣味というほどはたくさん読んでませんけど。だけどだね、面白さというものは、ぼんやり眺めるものではなくて、探し出すものなんだよ、君。宝石とおんなじだ。

2008-08-20

「ファイアーエムブレム」のために DS を買ったものかどうか迷う。

清少納言松島日記

「清少納言松島日記」という旅日記があるのです。これは「老尼となった清少納言が、都から陸奥国の松島に下ったときの旅日記」ということなんですが、じつはそういう設定で書かれた、後世による偽書です。引用した説明は「日本古典偽書叢刊」第二巻のもの。そういう叢書があるんだねえ、と思った。松島日記は、9ページしかない短い文書です。あとかわいい挿絵付き。

同書の解題によると、

近世には清少納言晩年の紀行文として重視され、たとえば、伊勢貞丈は本日記を清少納言の自著と断じて考証を進めた。しかし、本居宣長が『玉勝間』で「めづらしくおぼえて、見けるに、はやくいみじき偽書にて、むげにつたなく見どころなき者也」と評して以来、現在では偽書と認めるのが妥当とされている。

「日本古典偽書叢刊」第二巻、p. 28、現代思潮新社、2004年

というものらしい。伊勢貞丈(いせさだたけ)は、ウィキペディアによると江戸時代の有職故実研究家。本居宣長とほぼ同時代の学者ですね。『玉勝間』での言及は二の巻の「松島の日記といふ物」という段にある(こういうとこをちゃんと書いてくれないと、探す側としては困るのよ)。

内容は、「道中行きずりの人々が親切にしてくれる」といった、清少納言が書きそうもないこととか、山で夜を越していると麓の里で火が起きて村がすっかり焼けてしまったが居合わせた僧や翁はちっとも驚かないといった、いかにもなエピソードだとかです。解題に「鎌倉期の往生観念の影響が見られる」とあるように、どことなく無常観が漂う文章で、このことも鎌倉期以降成立という偽書説の根拠のひとつである、と。

しかし内容を云々するよりも、これは文体をみれば一目瞭然で、一条院時代の文章とは随分違った感じです。有職学者としては「いい話だから本物だよきっと」ということなのかもしれないけど、宣長にしてみれば冗談じゃないと思ったことだろう。というのも、この日記では係り結びがぐだぐだに崩壊している。

「や/か」…(連体形)の文は、終止形と連体形が同型の語しかないので、どちらが使われているのか判別しがたい。

  • 木の丸殿にあらぬ嫗の旅、誰し名のりごち咎めかし。
  • いとどしく、后の宮の御面影、御堂殿の御栄えの末も、夢よりはいくらまさりけん

「や」は終助詞的な使い方が多いです。「いくらか」は副詞的で、係り結びを意識していたかどうかはこれだとよくわからない。

「こそ」を使ってる文がふたつあるけど、已然形で終わるのはうやむやな感じ。

  • ……十日ばかりさすらうてこそ、武蔵野の末の古河(こが)の渡りといふに至る。
  • ……「逆さまなる仏事は仏の厭ひ給ふこと」とこそ、何がしの経に侍るものを、さいへど、善を積みて、我を罪にも落とせね、さはれ、生きとまるべき身にし侍らぬ。

前者は完全にアウトだし、後者は「いへ」「落とせね」(これは命令形「落としね」の誤かと註に)がそうかなあ、と言えば言えないこともないけど無理がある。「ものを」は順接・逆接の条件を表す接続助詞だから、「こそ……侍れ、」としてれば確実だったんですが。また逆に、この「侍り」の箇所で已然形が出てこなかったことが係り結びの崩壊している証拠になってしまっているような気がする。

「なむ(なん)」を使っている文もいくつかあるけど、どれもなんとなく名詞で終わっているか、終止形と同形の動詞で判別できない。

  • 石山の方、三井寺の方の行く雲をなむ、在五の朝臣のごと、「うらやましく」などと独りごちぬる夜まれなり。
  • ゆくゆくとしもなき旅になんありぬることよ。

後者は「なんありぬる。」でびしっと終わってたらよかったんですが、あとに名詞の「こと」を続けてしまいました。

「ぞ」…(連体形)の例はない。

こういう細かいところが積もり積もって、全体として読んでいてぐだぐだの印象を受けるわけです。「すかっと已然形で終わらせろ!」と宣長先生も息巻いたに違いない(註:宣長は已然形という言葉は知らなかったはずだけど)。

  • 里にまかでたるに、殿上人などの来るをも、やすからず人々いひなすなる
  • にくしと思ひたりし声ざまにていひたりしこそ、をかしかりしにそへておどろかれにしか
  • なにしには、知らずとはいひ

上は枕草子から適当に抜いたものですが、このように曖昧さなく、びしっとした例がいくらでもあるのです。終止形はそれぞれ「なり」「き」「き」なので、どれも明らかに連体形と判別できる。こういう明らかな例が松島日記からは見つからない。

松島日記を読んで宣長が「俺の『手枕』はもっとびしっとしてるぜ」とか思ったのかどうかは定かではない。

ストリートファイターIV

駅前歩いてたらゲームセンターに幟が立ってたので入ってみたところ稼働してました。やってみると「スパ II X」に近い操作感。「III」は神業的な人のプレーを見るのは楽しかったけど自分ではついていけなかったから、駆け引きのバランスとしてはこれくらいが丁度いいのかも。

新宿だとレベルが高すぎて入る余地がないので地元でこつこつ修行をする。

2008-08-07

もう八月かあ。

本屋に行ったら『テレプシコーラ』の第二部第一巻が売っていた。よかった、ちゃんと続くのね。

更新情報

Matthew Paul Thomas さんの、“Why Free Software has poor usability, and how to improve it” の日本語訳、「オープンソースのソフトが使いにくい理由とその対策」を公開しました。

この記事は、スラッシュドットで知りました。昔のバージョン(「どうして〜アレなのか」)を発展させた内容ですが、今回は原因だけでなく、対策まで分析されてますね。言いたい放題だけど、こういうの好きだ。「使える GUI デザイン」の記述も彷彿させる。

最初 Matthew Paul Thomas さんに公開の可否を聞くつもりだったのですが、よくみると原文である Thomas 氏のブログにはコンタクトをとる手段がない。そういうポリシーなのでしょうか。オープンソースらしくないな。ブログだからトラックバックとかいうやつはできるのかもしれませんが、あいにくうちにそんな贅沢なものはない。というわけで前回に続き今回も勝手公開です。CC でライセンスを明示してくれるだけでも精神衛生上はよいのですが。

WZ6

オープンソースじゃないんですが、この人の記事を訳すと毎回 WZ のことを思い出す。

そういえば、WZ6 のこともスラッシュドットで取り上げられてましたが、そこで怪作「校庭周回マクロ」の NaruTo さんを発見。お元気そうでなによりです(同窓会か)。

WZ6 には乗り換えないので、もうプレビュー版も試さず 2ch を野次馬してるだけです。しかし、5 の時に、申し訳なく思いながらも懇々と口説いてようやく「ふつう」の UI にしてもらったもろもろのフィーチャーが、「一から書き直しました」の名の下にことごとく薙ぎ払われてしまっているらしいのを見るにつけ、よのすごうあだなるをこそおもひしらるれ。

ただの小言としか思われてなかったんだろうな。

ThinkPad X200

英語キーボードの写真が超超超打ちやすそうなので、日本語キーボードがどうなってるか見たい。あと事前の噂では、1.1 kg 代の、X200s が出るとか言われてたけど、あれはガセだったのかな。残念。しかし重量がほとんど同じなんじゃ、X300 と差別化ができてなくない? X300 の価格も下がってきてるし。まあトラックパッドが付いてないというアドバンテージはあるけど。

レビューサイトで最後のまとめに「欠点: マニラ封筒に入れても収まりが悪い」って書いてあったのがおもしろかった。