2008-09-21

今日はおしまいに、「エレベーター」と「エスカレーター」、どっちがどっちだったかを思い出すための秘密のおまじないをご紹介します。ライフハック。

ATOK

ATOK の月額 300 円の販売モデルを「定額」と呼ぶのってへんじゃない? 定額というなら、パッケージを買った人のことでしょ。月単位の時間課金なんだから、「月極」とでもすればいい。変換量に応じてとか日単位とか時間単位で課金しているコースがあるわけでもなし。定額という言葉の意味をわかって使っているのだろうか。さすが正しい日本語のジャストシステムですこと。

紫式部日記

あと七、八ページなのでもうすぐ読み終わる。けっこうおもしろいことがあるんだけど、うまく書きにくい。

まずこの日記というのは、中宮彰子がお産のために父藤原道長の私邸に下がっているところから、皇子誕生、そしてそのお祝いにまつわる後日談などを、彰子付きの女房であった紫式部が書いた記録というのが基本。こうしたことを書いてある箇所は基本的に「めでたいムード一色」で書かれている。

ところが、書いているうちに紫式部の気が滅入ってきたのか、「つらい世の中」とか「みんながわたしを嫌っている」みたいなことを言い始める。そしてだんだんそういう陰鬱な記述が増えてきて、終わりに近くなると、突然、消息文(つまり手紙文)になってしまう。これはどうも本文の原稿を道長か誰かに送ったときに、故意か事故かはわからないけど、それに付けた私信部分も書写されて流通してしまったような感じ。

で、その消息文のところでは内裏の女房のだれが可愛いとかなんとかみたいな人物評になっていく。そして話は外見から人間の中身のほうに移ってきて、和泉式部・赤染衛門・清少納言をむちゃくちゃに言い落とす、有名な批評を述べたてる。そのあと、そこまでばっさり斬っておきながら、「なんの取り柄もないわたし」みたいなことを言い出すという、あらすじとしてはそういう文書。

へんな本だ。

ほとんど神経症の一歩手前じゃないかと思った。鬱の傾向のある人のブログなんかがまさにこういう流れになったりしそう。それと、彼女には男性恐怖症的な傾向も感じる。「同性愛的」と書いてる本もあったけど。

紫式部日記の内面的分析は、岩波の「古典を読む」シリーズの、先日亡くなった大野晋による『源氏物語』が詳しい。このシリーズ、図書館で『枕草子』を開いたら(誰が書いてたかは忘れちゃいました)、「清少納言は中宮定子のお姉さん的な感じもあったのよね」みたいなことが書いてあって、「そういうゆるい話のシリーズなのかな」と思いながら『源氏物語』のほうを開けたら、いきなり表とともに「名詞を直接受けないハの割合は四割を超えている」みたいな文が目に飛び込んできて、そのギャップにびっくりした記憶がある。さすが御大だと思った。紫式部日記を読み終わったらもう一回読んでみようかな。

文法的な興味で読み始めた古典だけど、中身としては僕はやはり歴史的なことよりも文学的なほうに目が行く。こういう、個人の屈折した本音だとかがにじみ出てくるような「怪文書」なんかにも心惹かれるものがある。枕草子でも、僕が好きなのは清少納言が人に出し抜かれたり、コンプレックスを吐露したりするような段なんだよね。こういう面白さは、近代以降の読者はみんなそれぞれ独自に発見してたと思う。樋口一葉とか。

それにしても驚くのは、千年前にこういう近代的な意味の「個人」という概念が通用するような文書が書かれていたということ。だってフーコー先生とかの言いっぷりだと、「個人」という概念はついこの間できたモノなんだという感じじゃないですか。「古代人には内面はなかった」と。だけどそれも普遍的というよりはヨーロッパ的な説に過ぎないのかもしれない。

しかし近代までは、たしかにこの紫式部日記にせよ源氏物語にせよ、こんなどろどろした本だというのに、昔の人は「もののあはれ」とかさっぱりした名前を付けて「みんなの文化的な共有財産」にしちゃってたんだから、やっぱりそういうものなのかもしれない。精神分析的な読み方に凝ってはよくないとは思うけど、そこまでしなくても現代人だったら、ある人物のああいう文章を読めば「この人は滅入ってる」ということぐらい容易に察知できるだろう。だいたい抑圧されたら滅入るなんてのは、いつの時代の人間だって同じはずだと思う。だけどそれを言い表すボキャブラリがなかっただけかもしれない。

うーん、やっぱりここで書くのは難しいな。

今日のライフハック

エレベーターとエスカレーターは、人と話をしているときなど、どっちがどっちだかわからなくなったりすることがよくある(よね?)。そんなとき、唱えるだけでその区別をまざまざと思い出すことができる、秘密の言葉があるのです。今日はそれをご紹介しましょう。それは、

「エレベーターアクション」

ですっ! ひとたびこの言葉を口にすると、しゃがんで銃弾をかわしたりする主人公や敵キャラとともに、そのステージがチープなドット絵で頭の中によみがえります。そして、そうそう、これがエレベーターだった!とはっきりするというわけ。ほんとに効果あるよ。まじでおすすめするから。ぜったい間違えなくなる。

2008-09-10

もうあまりにもどうでもいいことですが、茂木健一郎って桃井はるこに似てないかな(逆か)。

デザイン

デザイナーに会社のパンフレットに掲載する地図を作ってもらうことになり、その原稿を作る。自分なりにデフォルメを利かせて、会社の人に意見を聞いてみると、肯定的な評価があんまりない。

それで最初は落ち込んだのだけど、もらったコメントをよく振り返ってみると、そのほとんどすべてが「○○が載ってない」という文言に集約されることに気づいた。そういうことか。

会社の人たちはデザイナーでもなんでもないので、デフォルメの巧拙とかには目がいかない。だから地図を見せられて言えることは、結局「○○が載ってない」という指摘くらいなのだ。自分も、他人が作った地図の原稿を見せられたら、言うに事欠いて同じようなコメントをしていたかもしれない。

ということで、この手の意見は遠慮なくすべて無視することに。だって作ってるときは「どこまでシンプルにできるか」を考えて作ってたんだから、みんなの意見を取り入れたらまた雑然とした不格好なものに戻ってしまう。こういうときには民主的でないほうがいいのよ。道順を図示するためのものなんだから、「歩道橋がない」とか「○○ビルがない」とかいう指摘に応えていると、どんどん悪くなっていく。あぶないあぶない。

これに気づいたとき、デザインというものの本質をかすかに垣間見たような気がした。やっぱりプロというものは、「削る」プロなんだろうなあ、と。

紫式部日記とか

あんまり書いてないけど、読んでます。いま半分くらいまで読んだ。たしかに紫式部の文章は、枕草子と比べると難しい。というか、長い(一文が)。しかしこちとら基礎体力をつけて挑んでいるからね。がんばるよ。

それまでは、基本的に読んだことある古文はほとんど清少納言の文章ばっかりだったので、こうして紫式部日記を読み始めるとやっぱり古文でも人によって雰囲気の違いが出るもんだなあと思う。それを感じられるようになっただけでも進歩してるということだと思いたい。

あと平行して、枕草子のほうで読んでてよくわからなかった箇所を「新日本古典文学大系」の注釈で解決していくという作業を始めた。とくに最初のほうは、ほんとに知識ゼロで始めてるから読めてなかったところが多い。「なるほどそういうことか」と膝を打つようなことも少なくないけど、表現についての注釈が豊富な「新大系」でそもそも読み始めていたら、読み流してしまい大した感慨もわかなかっただろうな、と思う。悪戦苦闘したからこそ、注釈を読んで大いに溜飲が下がるというわけで。

ついでに「赤染衛門集」まで読み出したので、若干さばききれなくなっているかも。枕草子も紫式部日記もこれも、内容についていろいろ書きたいことはあるものの、その時間がない。

あと本当は『玉勝間』も読みたくて買ってあるんだけど、積んであるままだ(まあこれは厳密に古文というのとは違う)。長いキューだ……。それにまだ五十四帖の大物だって残ってる。

2008-09-03

tenki.jp がなんかポータルっぽくなってる。勘弁してよ。

予測。国産テキストエディタで、1 タブ 1 プロセスで動いて安定性を謳うのが出る!(確信なし。)

乗り換え先はxyzzy

これがあの見米さんの文体なの? なんだかずいぶん丸くなっているような気が。

5.0 のベータテストの時、僕らは見米さんにまるで怨恨でもあるかのごとき言いぶりで不具合報告や要望を叩きつけてきたけど、6.0 の初期の「身内レビュー」の段階では、その見米さんが山口さんに同じようなことを片っ端から報告していたというのはなんだかおもしろい。結局、見米氏もあの時は「中の人」として守るべきものがあったということなのだろうか。当時議論した問題のうちのいくつかでは、見米氏はただ「代弁」をしていただけなのかもしれない。だとしたらちょっと申し訳ないことしたとも思う。

じつをいうと、当時は「中の人」である見米氏を説得できれば、氏のセンスで WZ になんらかの改善が反映されるものとも思ってた(設定ダイアログとか)。でもこの見米さんの書き方から察するに、やっぱりそういう裁量は山口氏次第だったのね。僕が見米さんに由来しているとばかり思い込んでいた VC の「頑なさ」のいくらかは、あるいは山口さんに由来していたものだったのかもしれない。

(もっとも、個人的には、当時の見米さんの対応でいまだに疑問に感じている部分はありますよ。)

山口さんが何を考えているのかは、僕はもうわからないです。WZ MAIL とか作り出した頃は「手を広げると大変だ」とは思いつつも、作ろうとしてるのがどうあるべきものなのかという、そのビジョンは理解できたんだけど。6.0 の最初のプレビュー版を見たとき、じつは僕はその様相にうっすらと狂気めいたものすら感じた。WZ は、テッド・ネルソンのハイパーテキスト構想や、水野晴郎のシベリア超特急シリーズのような、厚い敬意を払われつつも生暖かい目で見守られるような、氏の孤高のライフワークになってしまうんじゃないかと思った(で、リリースのたびにニュースになったりスラッシュドットに出たりだけはする)。これは杞憂であるといいんだけど。

あるいは、もう Windows の普通の UI をとか言わないで、そういうのをぜんぶ山口氏の思うままにさせておくと、最終的にできあがったときに(Emacs みたいな)超絶アプリケーションになっているのかもしれない。

なんだかんだで 4.0 も 5.0 もそれなりの形にはなったのだから、6.0 もそれと同じくらいのものにはなるのかもしれない。そうなったら、2ch の人たちに感謝すべきですね。それともべつにベータテストじゃないから感謝しない?

自分を説得することの難しさ

枕草子のある章段のある文が修辞疑問文、つまり反語表現かどうかを、ここ数日ずっと考え続けている。もう考えすぎて頭がおかしくなりそうだ。「新日本古典文学大系」の注釈では、そこは反語ということになっている。しかし……。

反語かどうかで文意がひっくり返るわけで、どうも放っておくのが気持ち悪い。

うう、頭痛い。めまいもしてきた。

ストリートファイターIV

行くゲームセンターになかなか倒せないケン使いの人がいる。七、八回に一回くらいは勝つこともあるのだけど、ちょっと気を抜くとボコボコにされる。向こうの人はなんとも思ってないだろうけど、ひそかにライバル視して挑んでいる。ていうか会社帰りだと対戦台のメンツがほぼ固定してるとかいう罠。

ケンの倒し方と、古文の反語表現、それが最近の脳内二大思考潮流です。