2008-11-11

岩波文庫版『枕草子』を読んでて生じた疑問点を、図書館から借りてきた新古典文学大系版で潰していく作業をしてたんだけど、それがようやく一通り終わった。

やはり岩波文庫版は注も解釈も古かった。注が弱いのは読む前からわかってたけど。本文をどこで段として区切るかという、その分けかたも違っていて、新古典文学大系のほうがより無難になっている。これから読む人には、新しいほうをお勧めするね。

原文を読んで、辞書を引いて、その上でいくら考えてもよく意味がわからなかった箇所というのは、新古典文学大系の解釈を見ても、これはわからなくても仕方がないよな、と思うものが多かった。たとえば歴史的な背景を知ってないとぴんとこないところだったり、そもそもいまだに文意がよくわかっていないところだったり。

でも最初に原文のみのやつをひたすら調べて読み通したのは結果としては正解だったと思う。基礎体力が付いた。そしてそういう基礎体力作りとしての使い方なら、べつに岩波文庫版でも問題はない。新しい研究内容が反映されてたほうが、とか考えるのはスタート地点に立ってからの話で、まずはそのスタート地点に着くまでがたいへんだった。

現代語訳が付いてたら、疑問点が出るまで本文を考えたりはしなかっただろう。現代語訳は、訳として完成度が高いと「ここはなにを言いたいのかよくわからないな」という本文の怪しいところが覆い隠されてしまうし、逐語訳調だとそもそも訳文の意味がよくわからなくてへんな方向に悩んでしまったりもする。「知らないべきであったのだなあ」とか、ああいうのはほとんど人造言語みたいなもので、意味を考えるときに頭の中で使う分にはいいけど、それで現代語にしたつもりになってはいけない。

といっても、これはあくまで自分のやり方で、現代語があったほうがやりやすいという考えを否定するものではない。自分のやり方はちょっとマゾヒスティックだ。それに文学作品として鑑賞する目的なら現代語訳で読んでもまったく問題ないと思う(思った)。和歌や俳句ならともかく、散文作品は翻訳できるのが強みなんだから。もちろん人造言語じゃない方向の訳でだよ。そっちの方向の訳文で(あわよくば原文もとか横着を目論みつつ)読もうと考えるのがいちばんよろしくないのではないか。意味がよくわからないうえに、退屈で。

章段分けはほかの本で言及されてるときに重要だから、そこはちょっと古い岩波文庫版は分が悪い。

さてこのアプローチは、古文以外の外国語を読むのにも使えるのだろうか。

ストリートファイターIV

対戦がそこそこできるようになってくるとおもしろくなってきた。それにしても、まさかこの歳になっていまだにボディプレスでめくったり波動拳をダブルラリアットで抜けたりしてるとは思わなんだ。

ふつうに対戦してるだけで満足なんだけど、カード作ったほうがいいのかな。

ところで今回は対戦だとわずかにタイムラグがあるような気がする。筐体間でTCP/IPとかで通信してるんじゃないだろうな。液晶のせいだと言う人もいるけど、あれってそんなに影響出るものなの?

それにしてもストIVの画面に慣れてしまうと、それまでの格ゲーがすごくしょぼく見えてしまう。アニメーションパターン数が多いと言われていた「ヴァンパイア」シリーズが紙芝居のように見えてしまったのには愕然とした。ストリートファイターIIIなどは、出た当時知人をして「現実はこんなにパターン数多くない」と言わしめたほどだったのに、それすらいま見るとよくできたパラパラマンガといった感じだ……。また遊べばすぐに感覚戻るんだろうけど、目が肥えてしまった自分がちょっと残念。でもどれももうおおむね10年以上前のゲームなんだよね……。

エディタ話

ちょっと前の話だけど。

膨大なテキストファイルのデータを修正する作業をメモ帳でやろうとしていた友達が「タブかスペースかの区別がつかない」とか言っているので、テキストエディタなるものの存在を教えて差し上げる。EmEditor をお勧めする。あと TeraPad の名前も挙げたけど、いまのトレンドとはやや外れてるか。

大工たちの食事の謎

これもちょっと前の話だけど、まだ書いてなかった。

『日本料理の歴史』という本に、枕草子にある話としてこんなことが書いてある。

清少納言の『枕草子』に大工たちの食事を描写したところがある。彼らは食べ物が運ばれてくるのを今や遅しと待ちうけていて、汁物がくると、みな飲んでしまい、空になった土器を置いてしまう。次におかずがくると、これもみな食べてしまってもうご飯はいらないのかと思っていると、ご飯もあとからくるとまたすぐなくなってしまった、といって「いとあやしけれ」というわけである。汁と飯、お菜と飯とを交互に食べていくのが今も続く和食の食べ方だが、お腹のすいた大工には、そんな作法は関係なかったようである。

『枕草子』の記事では、大工の食事がどの時間のものであったかわからない。

熊倉功夫『日本料理の歴史』吉川弘文館、2007年、pp. 40-41

ふーん、おもしろい、と思うでしょ。自分もそう思った。だけどこの本を読んでいたときは、まだ枕草子は途中だったから、あとでこういう話が出てくるんだな、と思うくらいで読み流した。

ところが読み終わってみると、こんな話、枕草子のどこにもなかったのだ! これはいったいどうしたことだ。この件はいまでも謎。出典とした書名が書いてあれば参照できたのだけど。

2008-11-01

さて、新日本古典文学大系の源氏物語を買ってしまった。もう後には引けない。

そういえば、前回ちらっと言及した大野晋の『源氏物語』、あんなことを書いていたその月にちょうど文庫になっていた。岩波現代文庫。

(作用|形状)性(名詞句|用言)

古代語では、(1) のように、用言の連体形を、そのまま名詞句として用いることができました。これを準体句といいます。準体句は、主名詞が顕在していない連体句とみることができます。

(1) a 仕うまつる人の中に心たしかなる[人]を選びて(竹取)
b 昔、月日の行く[コト]をさへ嘆く男(伊勢 91)

(1a) のように、顕在していない主名詞にヒトやモノが想定される準体句を形状性名詞句、(1b) のように、顕在していない主名詞にコトやノが想定される準体句を作用性名詞句といいます(石垣謙二 1942)。

日本語の用言は、形状性用言と作用性用言との2つに分けられます。形状性用言とは、終止形がイ段音の語(形容詞・形容動詞・ラ変動詞、および「べし・たり・けり・き」などの助動詞)と動詞「見ゆ・聞ゆ・思ゆ・侍ふ・おはす・という・になる」、助動詞「ず・む・らむ・けむ」です。それ以外の用言は、作用性用言です。作用性名詞句(〜コトの意の準体句)の準体部に現れる用言には制限がありませんが、形状性名詞句(〜モノの意の準体句)の準体部に現れる用言は、一般に、形状性用言に限られます(石垣謙二 1942)。実際、(1a) は形状性名詞句ですが、準体部は形状性用言(「たしかなり」)になっています。例外は 1. のような句型で、作用性用言で形状性名詞句(〜モノの意の準体句)を構成する場合は、必ず主語になり、かつ述語は形状性用言になります(石垣謙二 1942)。

1. 猛き武士の心をも慰むる△は歌なり。(古今・仮名序)

したがって、たとえば 2. は、「渡り給ふ」が作用性用言なので、同格構文(「大臣の渡り給ふ[大臣]」)ではありえず、作用性名詞句(「大臣の渡り給ふ[コト]」を待ちけるほどに)ということになります。

2. 頼信、大臣の渡り給ふ△を待ちけるほどに(今昔 27-12)

作用性名詞句が主語になるとき、述語は必ず形状性用言になります(これを「作用性用言反撥の法則」(石垣謙二 1942)といいます)。すなわち、日本語には、2〜4. の句型はありますが、1. の句型は存在しません。

1. *子供の群がるが騒ぐ。 <作用性名詞句−作用性用言>
2. 子供の群がるが騒がし。 <作用性名詞句−形状性用言>
3. 子供の群がれるが騒ぐ。 <形状性名詞句−作用性用言>
4. 子供の群がれるが騒がし。 <形状性名詞句−形状性用言>

(小田勝『古代日本語文法』おうふう、2007 年、pp. 150-156)

注意して読まないと誤解する、ひじょうにややこしい箇所。

現代語で例の「リンゴが売ってる」問題を考えるのにも関係してくるかもしれないね。

形状性用言の定義は一見恣意的だけど、英語でいえば補語をとる自動詞(SVC の文型になるやつ、be, become, look, sound, etc.)というのにあたっている。

ノリナガ、こないだパーマかけたのよね

『玉勝間』二の巻。

宣長、縣居大人にあひ奉りしは、此里に一夜やどり給へりしをり、一度のみなりき、

宣長は、道を尊み古を思ひてひたぶるに道の明らかならんことを思ひ、……

宣長の一人称は「宣長」。そんだけ。

更級日記

昔より、よしなき物語、歌のことをのみ心にしめで、夜昼思ひて、おこなひをせましかば、いとかかる夢の世をば見ずもやあらまし。

(『更級日記』岩波文庫、p. 68)

訳 昔から、くだらない物語や歌に夢中になってばかりいないで、昼夜一心にやるべきことをやっていれば、こんな目には遭わなかったのではないだろうか。

最近忙殺され疲れてるせいもあるのか、いろんなことで自信をなくしたり悲観的な考えに走ってしまったりしがち。まさか平安女流文学の身の上を嘆く調子が乗り移ったというわけでもないけどさ。

それで現実逃避に古文を読む。健全でないが、悪いのは現実逃避でなくて、現実のほうで事態を改善する行動を起こす勢いがないことだね。

ATOK

どんどんあてにならないと感じるようになっている。「披露が激しく」とか。「酒という肴は」という変換を出してきたことがあるけど(「鮭という魚は」と書こうとしてた)、これなんて空気を読んだつもりで得意げに間違っているような変換だ。